昭和25年(1950年)に校歌を作詞した小笠原一夫さん(高校3期)と、当時は大分第一高等学校という名称だった学校の正門。昭和26年(1951年)高校卒業アルバムより。小笠原さんは3年18組に所属されていた。

大分県立大分上野丘高校校歌 作詩 小笠原一夫 作曲 中山悌一 

 

 今から70年前の昭和25年(1950年)に校歌を作詞した、小笠原一夫さん(高校3期)は、当時を回想した『わが校歌への思い』の中で、『何とか1小節目の「みはるかす国・・・」がまとまったのは、上野の小高い山から見下ろす大分平野や市内、別府湾と続く広い情景がもとになったもので一番気に入っている部分ですが、今考えてもここには私の一時代の苦しい思い出がオーバーラップしてくるのです。戦後の引揚者であった私が別府から大分に居を移したものの、生活の苦しさは相変らずで、時には弁当を持って行けない日もあり、そんな時私は気を紛らわすため昼休み時間に皆と離れて運動場から連なる松林や上野の山裾を歩きながら、時間の経つのを待っていたことがあります。こんな時私の目に映っていたのが「みはるかす国碩田」であったのです。』と綴られています。当時は太平洋戦争の終戦からわずか5年後で、連合軍占領下でもあった状況の中で、希望に満ちた崇高な校歌を作られたことに改めて感動すると同時に、当時小笠原さんが眺めた景観を自分も見てみたい、と願うようになりました。

 

 実は昭和59~62年(1984~1987年)に在校していた筆者(39期)にとって、上野の山から校歌のような風景を眺めた記憶はありません。思い出せるのは、高校に入学して間もない頃に4階建ての校舎屋上から、校歌や応援歌(大分中学校歌)を学年で練習したときに見た眼下の風景です。北は大分市街と別府湾、西は上野丘墓地、南は霊山、東は大分川が見えました。❶は、アーカイブ委員の柴田誠二さん(20期)が撮影された、現在の普通教室棟(昭和38年完成)屋上からのパノラマ風景です。大分市街には高層ビルが増え、特に近年は大分駅周辺の再開発が進んでマンションやホテルが立ち並んでいて、別府湾や大分川の水面は見えないものの、東西南北を望む眺望が広がっています。

普通教室棟屋上からの東西南北の風景(撮影 柴田誠二さん(高校20期)

 

 また、2018年(平成30年)の高校創立70周年に合わせて同窓会が作成した校史を紹介するDVDには、上尾裕昭会長の発案により高校上空からドローンで撮影した360度の風景が収められています。

現在の校舎が完成する前の、昭和36年(1961年)の高校全景。木造2階建ての本館と校舎で構成されていた。

 小笠原さんが在学されていた当時は木造2階建ての旧本館と校舎の時代で、現在の校舎やドローンはもちろんありませんでした。そこで昔の上野丘周辺を撮影した写真について、調べてみることにしました。

 校歌が誕生した18年前、昭和7年(1932年)に撮影された航空写真を見ると、学校の西にある上野丘墓地が綺麗に整地されており、さらにその北側は田園が広がっていることから、大分市街地や別府湾への景観が広がっていたことが想像されます。

 今から百年前の大正時代には、上野丘の北側のふもと一帯(現在の大分市立上野ヶ丘中学校から揚志館高校にかけての一帯)は、通称「上野台」「上野高台」と呼ばれ、田園を挟んで大分市街が一望できる風景が広がっていたことが、当時の写真から偲ばれます。

 大正10年(1921年)の消印が押されている絵葉書には、写真左側に当時「上野道(中学道)」と呼ばれていた、大分中学と大分市街(現在の大手通り)を結ぶ道路が映っています。戦前の大分中学生や、戦後まもない上野丘高校生はこの通学路を市街地から往復していました。この写真は、戦前に豊後製糸工場があった現在の大分市立上野ヶ丘中学校南側の高台から撮影されたと考えられます。(※撮影地点(視点場)の同定と建物の考察は、大分大学工学部名誉教授の佐藤誠治先生の御協力を頂きました。)

 現在の上野丘1丁目2番あたりから北方向を撮影した大正10年(1921年)の絵葉書を見ると、大分駅の鉄道操車場(地元の人々からは「機関庫(きかんこう)」と呼ばれていたそうです)や、遠景に府内城内にあった大分県庁をはじめ、第一高等女学校や第二高等女学校の校舎が直に見えていたことがわかります。

 同様に現在の上野丘1丁目2番あたりから東方向を撮影したと考えられる大正10年の絵葉書を見ると、遠景に大分川の鉄橋が見えます。

 時代は下って昭和30年(1955年)の大分上野丘高校卒業アルバムに、「大分市の夕景」と題した写真がありました。トキハデパートや中央通りの照明が目立っています。当時は日本が戦後の独立後、経済成長が進んで夜の照明も華やかになった時代です。この写真の撮影地点(視点場)も、現在の揚志館高校(当時桜ヶ丘高校)のある高台です。(※現在は大分駅を中心とした再開発で高層マンションが立ち並び、大分市街への眺望はできません。) 

 

 ただ、ここまでご紹介した書籍や大分市の戦前絵葉書、卒業アルバムの中からは上野丘から見た、みはるかす国を思わせる風景写真は見つかりませんでした。

 これは、栗林伸幸さん(20期)が、昭和40年(1965年)に高校の墓地公園で行われたスケッチ大会で撮影された写真です。上の写真には、遠景に現在の大分県庁本館(昭和37年完成)や別府湾、臨海工業地帯で最初に造成された石油タンクが映っており、下の写真には今も現存している上野変電所(大正3年完成)が見えます。『これこそ小笠原さんが眺めたみはるかす国の風景だ!』と直感したのですが、半世紀以上前の撮影であり、墓地公園のどこから撮影されたのかわからなくなっていました。そこで佐藤教授にお願いをして、栗林さんが撮影した写真を組み合わせてパノラマ画像を作って頂くと同時に、大分県庁など複数の建物から撮影地点(視点場)を同定して頂きました。

  その結果、栗林さんが高校のスケッチ大会で撮影した地点は、上野丘墓地の北東端にあって、上野変電所に電線を繋いでいる送電鉄塔付近(図の❷の地点)であることが判明しました。高校のグラウンドの北側を通って、金剛宝戒寺の裏(西)を通り、百段階段を登って常妙寺墓苑に登り、樹木が生い茂る中を北に進むと、10分以内に送電鉄塔に到達します(黄色の実線矢印)。昔は弥栄神社の裏から常妙寺墓苑に上がる小径(桃色の破線矢印)があったそうです。現在はその小経は樹木に阻まれて失われていますが、学校から常妙寺墓苑に上がって送電鉄塔に行くには最短であり、小笠原さんはそのルートを通った可能性もあります。

 昨年の令和元年(2019年)12月28日に上野丘にお住まいの柴田誠二さん(高校20期)に現地を案内して頂きました。❷の送電鉄塔付近に行くと、下の写真のように鬱蒼とした樹木の繁茂によって眺望が阻害されていますが、木々の間から上野西山公園、浄安寺墓地、さらに遠景には大分県庁新館(平成5年完成)や、臨海工業地帯が垣間見えました。

 さらに感動したのは、送電鉄塔付近から東を望むと同様に樹木の繁茂に阻まれながらも、木漏れ日と共に木々の間から、大分川の赤い鉄橋が見えたことです。子供の頃から大分市元町に住んでいた私にとって、大分川鉄橋は心象風景でもありますが、上野丘から直に眺望できることを初めて知りました。その少し北寄りには日本製鉄の溶鉱炉や煙突も見えます。樹木で遮られていなければ、栗林さんが撮影された上野変電所も見えたことでしょう。

 なお送電鉄塔から南の常妙寺墓苑から、下に畑があるために数メートルに渡って樹木に遮られない眺望ポイントがあることを佐藤教授から教えて頂きました。ここからは眼下に高校校舎や金剛宝戒寺をはじめ、北東方向に大分川鉄橋と臨海工業地帯、南東方向に碇山が展望できます。

 高校グラウンドから送電鉄塔❷と、常妙寺墓苑❸のある「上野の小高い丘」を写した写真の右端には金剛宝戒寺が映っています。宝戒寺の境内には、雪舟が文明8年(1476年)に豊後を訪れ、『天開図画楼(てんかいとがろう)」というアトリエを開いて創作活動を行ったことが書かれた碑があります。碑には天開図画楼記という文献から、『画師楊公雪舟、豊府西北隅に一小楼を作り、榜に題して天開図画という。滄海前に接し、群峰後に連り、 孤城左に聳え、二水右に流れ、位置勢排、千変万態なり。』と引用した文章が記されています。「滄海前」は別府湾、「群峰後」は霊山、 「孤城左に聳え」は高崎山城、「二水右に流れ」は大分川とすれば、小笠原さんが「みはるかす国」と表現した風景とほぼ一致するかもしれません。

 

 高校の西にある弥栄神社や松坂神社からは、南方向に聳える霊山と中宮山が見え、南大分の風景が広がっています(❹)。

 なお、送電鉄塔❷や常妙寺墓地❸から、北西に200メートルほど離れた「上野配水池」の敷地に、平成10年(1998年)に建設された上野高架水槽があります。普段は保安のため立ち入り禁止ですが、高さ33メートルの屋上からは高崎山から別府湾、大分川の景観が広がります。写真は佐藤教授が撮影したパノラマ写真です。

 さらに西に進んで大分市美術館の展望台から、高崎山からオアシスタワーまでの大分市街地の西半分の風景は素晴らしいのですが、東側は見ることができません。

 

 以上、校歌に「みはるかす国」と表現された風景の候補をできる限り探してみましたが、やはり栗林さんが撮影された上野丘墓地の北東端にある送電鉄塔 ❷ 近辺が、小笠原さんが実際に眺めて、校歌に織り込んだ眺望だったと思われます。今は樹木が繁茂して眺望はほとんど遮られていますが、同じように樹木で眺望が遮られていた高崎山の頂上や佐伯の城山公園でも、景観を改善するための整備が進められています。今の若者はもちろん、後世に伝えるべき「宝物」としての景観整備を上野丘墓地公園でぜひ取り組んで頂きたいと心から願っています。

 また、校歌が誕生した昭和25年(1950年)は、太平洋戦争での大分空襲によって、第一高女と第二高女を含めた大分市街が焼野原となった5年後のことでした。文字通り「国破れて山河あり」の時代でしたが、それでも力強く歩まれた先輩方の思いや希望が校歌に込められていると改めて感じます。この小文が、当時の思いや風景を追体験する一助になれば幸いでございます。

 

(後記)

 

 福岡県宗像市在住の小笠原一夫さんが、令和元年11月12日 89才で永眠されたことを、奥様のユキエ様より伺いました。心から哀悼の意を表します。2年前に同窓会アーカイブ委員会で高校創立70周年記念DVDを作成した際、校歌を作詩された小笠原さんの御写真をぜひとも動画に入れさせて頂きたいとお願いをして、昭和26年卒業アルバムの中から小笠原さん御本人より写真を教えて頂いたことは大切な思い出です。小笠原さんのクラスは3年18組であり、4校が合併して誕生した当時の生徒数にも驚きました。これまで御紹介した上野丘の眺望スポットや、昔の上野丘や周辺の風景写真を持って、小笠原さんに当時の散策ルートを教えて頂くことが叶わなくなったことは残念至極でございますが、私たち後輩に素晴らしい校歌を作って頂いたことを心から感謝いたします。ありがとうございました。

 

          大分上野丘高校同窓会副会長 アーカイブ委員会副委員長 

                  森本卓哉(高校39期)拝