室町時代から江戸時代にかけて、豊後を中心に肥後でも生産されていた麻地酒は『幻の名酒』として知られています。

 

 小瀬甫庵が著した『太閤記』の醍醐花見の章に全国から集められた献上品の中で『名酒には加賀の菊酒、麻池酒(麻地酒)、其外(そのほか)天野、平野、奈良の僧坊酒、尾の道、児島、博多の煉(ねり)、江川酒等を捧奉り、院内にみちて院外にあふれにけり』と書かれているように、豊臣秀吉が慶長3年(1598年)に京都の醍醐寺で行った花見に集められた全国のお酒の中で、加賀の菊酒と並んで名酒として特筆されています。江戸時代になって麻地酒は日出藩から将軍家に献上される名産でもありました。大分県速水郡日出町の松屋寺には、小僧が麻畑に隠していた甘酒から偶然にできた美酒の伝説があり、日出藩三代藩主木下俊長が藩の特産品と定め、日出城の東二の丸の麻地蔵で製造、日出の上町萬屋関家が代々杜氏を務めていたそうです。藩主自らその年に出来た甕ごとの品定めをして献上品を選定した逸話も伝わっています。

 

 ところが明治15年(1882年)に起こった日出城麻地蔵の火災や、太平洋戦争前後の米不足に伴って製造が途絶えたことにより、麻地酒の具体的な製造方法が不明となっていました。しかしながら、筆者が入手した元禄2年(1689年)に書かれた『合類日用料理抄(筆者所蔵)』に豊後麻地酒と肥後麻地酒の製法が簡潔ながら書かれていたことから、将来の麻地酒復活の一助になればと思い、このページで紹介したいと思います。『合類日用料理抄』の解読は、臼杵市歴史資料館史料専門員の松原勝也さんにお願いしました。

元禄2年(1689年)『合類日用料理抄(筆者所蔵)』の目次 豊後麻地酒と肥後麻地酒の項目がある。
元禄2年(1689年)『合類日用料理抄(筆者所蔵)』の目次 豊後麻地酒と肥後麻地酒の項目がある。
江戸時代から明治15年(1882年)まで麻地酒が製造されていた日出城から別府湾と高崎山を望む。
江戸時代から明治15年(1882年)まで麻地酒が製造されていた日出城から別府湾と高崎山を望む。

 

 麻地酒は、江戸時代の豊後三賢である日出藩の帆足万里の書簡にも『麻地酒二升お願申上候。お世話ながら御宅に取置き可被下候。十日に寺に人を遣候間、たる(樽)あげ可申候。』という、麻地酒を注文する文章が記されており、当時一流の文化人からも麻地酒がこよなく愛されていたことが伺えます。同じく豊後三賢である三浦梅園の漢詩『日出侯賜酒』は安永4年(1755年3月15日の書簡『奉拜日出侯辱麻地酒』から、麻地酒を日出藩主から頂いたときに詠んだと言われています。

 

  三浦梅園 作詩日出侯賜酒』 

柴門只任白雲関  天上桂枝無意挙 豈意清香頒月底  還将玉液漕人聞

露滴竹葉青侵案  雨注桃花紅上顔 草莽外臣感恩瞥  臨風儼自祝南山

 

 明治維新後も麻地酒の製造は続いていましたが、明治15年(1882年)に日出城での火事により麻地蔵が焼失した後には城内での麻地酒の製造が途絶えてしまいました。当時を知る古老の話では、明治以後に優れた吟醸酒の製造がさかんになったため、旧来の製法である麻地酒は淘汰されてしまったのでは、という話も伝わっています。日出町の二階堂酒造では、慶応2年(1866年)創業以来、麻地酒を製造していたそうですが、戦時中の米の生産低下に伴って焼酎を主とした製造に切り替えたため、現在では具体的な麻地酒の製法は伝わっていないそうです。

写真左:日出城の鬼門櫓(東北隅の角が特徴) 写真右:麻地酒が偶然発見された伝説のある松屋寺
写真左:日出城の鬼門櫓(東北隅の角が特徴) 写真右:麻地酒が偶然発見された伝説のある松屋寺

 このページが、将来の豊後麻地酒や肥後麻地酒の復活に少しでもご参考になり、熊本大分震災後の地域振興の一助となれば幸いでございます。

 

 このページを作成するにあたって、『合類日用料理抄』の解読をして頂きました臼杵市歴史資料館史料専門員の松原勝也さんをはじめ、大分県酒造組合元専務の河野誠一さん、二階堂酒造社長 二階堂雅士さん、日出町立万里図書館元館長 工藤智弘さん、鷹来屋酒造社長 浜嶋弘文さん(順不同)に、ご助言や文献資料のご提示などご教示を頂きました。衷心より感謝申し上げます。

 

(追記1)

 下記の参考文献6に紹介した加藤百一氏著『豊後国名酒考覚書 (二)戦国期より近世を中心とした系譜(日本釀造協會雜誌  1957年:昭和32年)』の文献の中で、このページでご紹介した豊後麻地酒と肥後麻地酒の製法について、一部表現は異なるもののほぼ同じ内容が掲載されています。その出典は加藤氏の参考文献に書かれているように、明治31年「実験混成酒製造法秘訣」醸造新聞社 という文献であり、その元資料は本ページで紹介した元禄2年(1689年)『合類日用料理抄』の内容と同じと思われます。参考文献6として記載しましたのでご参照ください。(下記の参考文献6の下線部分をクリックするとJ-STAGE という文献サイトの当該ページが開き、そこでFree PDF (本文PDF [1172K])というアイコンをクリックすると加藤氏の文献を閲覧できます。また、加藤氏は『豊後国名酒考覚書 (一)戦国期より近世を中心とした系譜』で、当ページで紹介した太閤記に麻地酒と並んで記載された有名な博多練酒のオリジンとして「豊後練酒」を取り上げて考察されています。参考文献7に掲載しましたので併せてご参照ください。

 

(追記2)

 昭和16年(1941年)に出版された小野晃嗣著「日本産業發達史の研究」至文堂に麻地酒についての記載がありました。追記1の加藤百一氏の研究論文に書かれているように麻地酒のオリジンは豊後としてほぼ間違いないと思いますが、小野氏は麻地酒の創製地について明瞭ではないという意見でした。ただ小野氏の文章にあるように紀伊で元和年中(大阪の陣以後の1615年以降)に生産したのは廣瀬嘉左衛門とのことで、豊後の名家である廣瀬家との関連は不詳ですが、追記1の加藤氏の考察のように豊後練酒が博多や全国に伝播したような事例が麻地酒もあれば、興味深い記載だと思いました。以下に小野晃嗣著「日本産業發達史の研究」至文堂(著者所蔵)の当該部分(207ページの一部)を参考までに記載します。

 

 麻地酒・・・・この麻地酒は前掲の如く『太閤記』『かくれ里』当にもしるされて著名ではあるが、之等以外には近世初期の文献に於ては、僅かに小濱民部廣隆が大坂の安井九兵衛にあてて、この酒の手樽の贈与を謝したる書状を発見し得るに過ぎぬ(安井文書)。『紀伊續風土記物産十』によれば「麻地酒は府下廣瀬嘉左衛門が家に製す、是も亦公儀へ献じ給ふこと元和年中より始まるといふ」とあり、『類聚名物考 飲食三』には「肥後の國より出る名産也』とあり、『毛吹草 三』には「豊後麻地酒 朝生酒トモ書、土カブリトモ云」と見える。故に近世末葉に於ては諸國に於て醸造を行った様である。然しこの酒が何地に於て創製せられたか明瞭を闕く。(以上、小野晃嗣著「日本産業發達史の研究」至文堂 昭和16年刊より抜粋)

 

参考文献

1 日出商工会「日出商工会史」1983年 

2 大分県速見郡日出町編 「日出町誌」1986年

3 小瀬甫庵「太閤記」教育社 1979年

4 小野精一「三浦梅園書簡集」第一書房 1943年

5 古賀了介 久米忠臣「帆足万里の手紙集」1993年

6 加藤 百一 「豊後国名酒考覚書 (二)戦国期より近世を中心とした系譜」日本釀造協會雜誌 52(6) 421-425 1957年(※)豊後麻地酒を中心とした考察

7 加藤 百一 「豊後国名酒考覚書 (一)戦国期より近世を中心とした系譜」日本釀造協會雜誌 52(5), 323-328, 1957年 (※)豊後練酒を中心とした考察

 

 

 

参考サイト

1.大分県酒造組合ホームページ 日本酒の歴史 大分の清酒の歩み

2.二階堂酒造有限会社ホームページ 二階堂焼酎の秘密

 

              平成29年(2017年)2月9日 みえ記念病院副院長 森本卓哉 拝

 

作成履歴:

平成29年02月09日 初稿と写真アップ。

平成29年02月20日 追記1、追記2、および参考文献6、7を追加。