大分のタイムカメラ③ 女子師範学校と第二高女

大分県女子師範学校と大分第二高女の全景。上のカラー写真は戦前にお土産として販売されていたカード(著者所収)
大分県女子師範学校と大分第二高女の全景。上のカラー写真は戦前にお土産として販売されていたカード(著者所収)

こんにちは!(^-^)

 

今回は、大分市長浜町にあった大分県女子師範学校と大分県立第二高等女学校を紹介します。

 

大分県女子師範学校は1907年(明治40年)に、府内城の堀を隔てた南側(現在の大分県庁がある大手町)に、大分県立高等女学校(後の大分県立第一高等女学校:第一高女)と共に開校しました。1911年(明治44年)には女子師範学校が長浜町に新築移転されて、絵葉書のような美しい学校として、大分の名所となりました。このとき附属小学校(4学年)も設置されています。1930年(昭和5年)には、大分県立第二高等女学校(第二高女)が併設され、教員向けの『数量生活確立の算術教育』、『体験の郷土教育』などの教科書を出版する高等教育機関としての役割も果たしていました。


絵葉書は、大分市の塩九升(しょくじょ)通りの方向からみた風景です。外国映画に登場する学校みたいに華麗ですね!学校の敷地の南北と東西に植えられた桜並木がとても綺麗だったそうです。

 

先月、第二高女を卒業された女性から、戦時中の御話を伺うことができました。1945年(昭和20年)7月17日未明の大分空襲で、校舎は爆弾の直撃を受けて焼失してしまったそうです。御話を伺った女性は、空襲時は幸い郊外におられて、深夜に燃え盛る大分市街方面の炎を見て涙を流したとのことでした。その翌日、瓦礫だらけの廃墟になった学校を片づけに行って、さらに悲しかったとのことでした。現在は学校跡地に大分市立長浜小学校が建っていますが、当時を偲ぶ名残として二宮金次郎像が、女子師範学校の第二附属小学校だった大分市立稙田小学校に保存されているそうです。

 

亡くなった私の祖母も大分県女子師範学校の卒業生だったことから、空襲で燃えて悲しかったことを子供の頃に聞いていました。ところで最近、祖母の卒業アルバムを初めて見て、学生時代の祖母が意外に(?)可愛らしかったことに驚きました。おばあちゃんも少女だったという素朴な発見です。『鬼も十八、番茶も出鼻』かもしれませんが。。。(^^;)

 

                            (文:森本)