続 大分のタイムカメラ 戦前の府内城② ~東の丸の着到櫓に大分測候所が設けられた頃~

上:明治中~後期に撮影された、(右手前から)着到櫓、大手門櫓、宗門櫓、西南隅櫓の写真。中:明治40年の府内城。下:昭和5年 第30回大分第一高等女学校卒業写真集より 府内城の西南隅櫓の前の御堀端を登校する女学生(いずれも著者所収)
上:明治中~後期に撮影された、(右手前から)着到櫓、大手門櫓、宗門櫓、西南隅櫓の写真。中:明治40年の府内城。下:昭和5年 第30回大分第一高等女学校卒業写真集より 府内城の西南隅櫓の前の御堀端を登校する女学生(いずれも著者所収)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんにちは。

 

今回は明治から昭和初期の府内城の風景をご紹介します。上と真ん中の写真の右手前に見える二重櫓は東の丸(二の丸)の大手門側にあり、「着到櫓」と呼ばれていました。明治18~19年(1885~1886年)に連続して大分県下で大きな台風被害があり、気象観測と予報の重要性が認識されました。そのため明治20年(1887年)に、府内城の着到櫓を「大分測候所」と定めて、屋根上に観測設備が設置されました。そこで、気圧、気温、湿度、風向きと強さなどを1日6回(午前と午後の2時、6時、10時)測定して、東京気象台に発信していました。

 

上の写真は明治中期~後期に撮影された、私が所有している府内城の絵葉書では最も古いものですが、着到櫓の1階の南側の窓が二つあり、他の櫓の窓の数と同じでした。一方、真ん中の写真は明治40年に大正天皇が皇太子時代に行啓のために大分に来県され、府内城内の東の丸御殿にご宿泊された時のものですが、1階の窓が4つに増えています。測候所が設置された櫓として、より多くの採光が必要だったのでしょうか。。なお、着到櫓に設置された大分測候所は明治20年(1887年)から明治40年(1907年)まで稼働して、明治41年(1908年)に長浜町の現在地に移転しました。着到櫓は真ん中の写真に見える大手門櫓や西の丸の西南隅櫓と共に昭和20年(1945年)の空襲で焼失してしまいますが、昭和40年(1965年)に復元された際に窓が2つの形に戻りました。

 

また、大手門櫓の上には鐘楼があり、朝の出勤時や正午に時を告げる鐘が鳴らされていました。府内城の堀を隔てて南に大分第一高等女学校があり、お堀端は通学路でもあったそうです。下の写真をみると、大分第一高女の女学生が元気に登校している姿が映っています。  

 

                        (文:森本)