(原稿1ページ目)
◆(原稿タイトル)
『絵葉書で蘇る明治・大正・昭和の府内城』
Funai Castle a Century ago (in the Meiji, Taisho, and Showa Periods) Revisited with Old Postcards
◆(担当者名・所属)森本卓哉 郷土史愛好家・医学博士
◆(序文)
◆写真1(『大分名勝集』のタトゥー表紙)
◆説明 大正写真工芸所制作の16枚入り絵葉書セットの表紙
◆写真2(『大分名所豪華版』のタトゥー表紙)
◆説明 昭和15年(1940年)、トキハデパートで15銭で販売されていた8枚入り絵葉書の封筒表紙。城内にあった大きな松も描かれている。大正写真工芸所製作。
(原稿2ページ目)
◆(小タイトル)
「横浜・トンボヤの府内城絵葉書」
府内城は大友家の豊後国改易後に新しく築かれた、府内藩主歴代の居城であり、明治維新後に県庁が置かれてからは大分県のシンボルとして、戦前の観光絵葉書の定番の風景になりました。昭和20年(1945年)の大分空襲で、大分市街の大半が焼失したことに伴い、府内城も人質櫓と宗門櫓を残して他の櫓は全焼しましたが、戦前絵葉書では江戸時代の姿が映されています。
学生時代から大分の古書店で戦前絵葉書を収集するうちに、さまざまな角度から撮影された写真を見て昔の城の姿を立体的に考えたり、また定点観測のように、城の建物や建物や木々が少しずつ経時的に変化していく様子を見て楽しむようになりました。府内城は、大分市のトキハデパートや電車通りと並んで、大分県民の誰もが親しんできた心の風景であり、病院の「もの忘れ外来(認知症診療)」や健康講話に使用する戦前絵葉書に欠かせない存在でもあります。これから、大分の郷土絵葉書コレクションの中で最も種類や数が多い戦前の府内城を、現在の風景と比較しながらご紹介していきます。
◆写真1(『大分名勝集』のタトゥー表紙)
◆説明 大正写真工芸所制作の16枚入り絵葉書セットの表紙
◆写真2(『大分名所豪華版』のタトゥー表紙)
◆説明 昭和15年(1940年)、トキハデパートで15銭で販売されていた8枚入り絵葉書の封筒表紙。城内にあった大きな松も描かれている。大正写真工芸所製作。
(1-2)大正写真工芸所製作の16枚入り絵葉書(白黒写真)の封筒表紙。
2.横浜の絵葉書問屋「トンボヤ」の府内城絵葉書
横浜の絵葉書問屋「トンボヤ」が、日本の城シリーズの一つとして制作した府内城の絵葉書です。着到櫓(別名 南櫓)の窓の配置から明治40年以前の撮影と考えられ、コレクションの中で最古と思われます。着到櫓は、窓の上の庇様の意匠が特徴で、明治20年(1887年)からは大分測候所として、気象観測の装置が屋根に設置されていました。このため他の櫓のような格子窓ではなく、ガラス窓が設置されています。嘉仁親王(後の大正天皇)の大分行啓(明治40年)の頃から、1階南面の窓は4つに増設され、昭和期になると再び格子窓に戻されたことが絵葉書の変遷からわかります。(※「絵葉書で見る府内城の経時変化 ➀着到櫓から」参照)
絵葉書表題の「大分城」は明治維新後、大分県庁が府内城内に設置されるようになって生まれた呼称です。江戸時代以前で大分といえば、「大分郡」のことを指しますが、大友氏の豊後国改易後の小藩分立で、大分郡は府内藩・臼杵藩・熊本藩・延岡藩・幕府領(天領)に細分化されていました。「大分城」は「県庁のある城」という新しい名前であり、府内藩2万石から大分県域全体(江戸時代の石高では豊前中津を合わせると約50万石)を代表する城となりました。
なお「トンボヤ」の絵葉書は住所欄の「郵便はかき」の『き』の字がトンボの形であることや、写真説明欄のトンボのマークが特徴で、明治から大正期に全国各地の観光絵葉書の作成を手がけていました。
(2-1)横浜の「トンボヤ」が作成した府内城絵葉書。着到櫓には測候施設が設けられている。後に4つの窓が設けられる南面が、2つあることから明治40年(1907年)以前の撮影である。
(2-2.3.4.5.6.7)横浜のトンボヤが、明治から大正期に制作した日本各地の城の絵葉書。左上から大垣城、福山城、明石城、高松城、高知城、熊本城(西南戦争で焼失前)。このうち、大垣城と福山城の天守は昭和20年(1945年)の空襲で焼失したため、江戸時代からの姿を今に伝える貴重な史料でもある。
(2-8)横浜市伊勢佐木町にあったヱハガキ問屋「トンボヤ」(右端)。赤いポストの看板が目印で、大分県では観光地の別府や大分県庁のある府内城(大分城)をはじめ、全国各地の観光絵葉書を制作していた。
3.美術絵葉書の府内城(皇太子行啓・大分駅開業・陸軍演習記念)
(※まだ執筆中です。7月18日(日)に初稿完成予定)
明治40年(1907年)11月に、嘉仁親王(大正天皇)の大分・別府行啓があり、このとき府内城内の大分県庁が御宿泊所になります。明治33年に私製葉書が認可され、日本では明治37年(1904年)の日露戦争で写真絵葉書の一大ブームが起こります(コラム1参照)。大分では行啓記念絵葉書に府内城の写真が多く使われて、大分県のシンボルとして広く浸透することにもなりました。
(3-1)「大分県行啓記念葉書」の封筒表紙。大分竹町の西海堂と、西新町の加賀屋分店が発売所となった。
(3-2)「大分県行啓記念葉書」の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の絵葉書。下に『東宮殿下 大分縣行啓記念』というエンボスと、『皇太子殿下大分縣行啓記念 明治四十年十一月』という記念スタンプが押されている。住所面に、「東京日本橋数寄屋橋ともゑ商會謹製」との記載がある。
(3-3)上に皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)、下に大分縣廰(着到櫓と大手門、西南隅櫓)の写真があしらわれた行啓記念絵葉書。明治40年(1907年)頃の西南隅櫓は、1階南面の窓が4つに増設されている。
(3-4)右に「御舘大分縣廰(府内城西南隅櫓と宗門櫓)、左に九州四国の図、左上には「皇太子殿下九州行啓記念」のスタンプが押されている。嘉仁親王(大正天皇)は明治40年(1907年)に御召鑑である香取に乗船して、大韓帝国、長崎、鹿児島、宮崎を訪問した後、11月5日に大分港に到着、大分県庁のある府内城東の丸御殿で2泊しながら、大分県師範学校や春日浦、高等女学校、大分県立中学校、7日には別府の工業徒弟学校や別府公園、観海寺に行啓後、高知に出発した。
(3-5)嘉仁親王(大正天皇)の大分・別府行啓スケジュール
(3-6)右上に「御座所大分縣廰(着到櫓と大手門~西南隅櫓)」、中央に御召艦香取、下に大分港の写真があしらわれ、右下に「皇太子殿下九州行啓記念」のスタンプが押されている。当時の大分港(菡萏港)は、規模が小さく和船が着岸できる程度だったため、香取は別府湾に停泊して、水雷艇から大分港や別府港に上陸する方法が取られた。
(3-7)右上に「御座所大分縣廰(着到櫓と大手門~西南隅櫓)」、下に大分港の写真があしらわれ、右下に「皇太子殿下大分県行啓記念 明治四十年十一月」のスタンプが押されている。
(3-8)中央に菊の御紋章と桜の花、左上に「御旅館大分縣廰(着到櫓と大手門)」、下に御上陸所(菡萏港=大分港)の写真があしらわれ、右下に「皇太子殿下大分県行啓記念 明治四十年十一月」のスタンプが押されている。
(3-9)府内城の西南隅櫓と東の丸御殿、着到櫓のイラストを背景に、右上に大分市役所(明治44年の大分市制施行から東上市町にあった時期)、左下に大分市電車通(二十三銀行附近)の写真があしらわれている。
(3-10)明治44年(1911年)11月1日に開業した鉄道大分駅の記念絵葉書。紅葉のイラストを背景に、右上に大分停車場(大分駅)と左下に府内城(西南隅櫓、宗門櫓、東の丸御殿、着到櫓)の写真があしらわれている。
(3-11)大正9年(1920年)11月に大分県で行われた陸軍特別大演習の記念絵葉書。「豊國」のエンボスに、府内城(着到櫓と大手門)の写真があしらわれている。演習を統監した皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)は、大分県庁(府内城)や大分県立中学、別府や中津を行啓されている。東京 株式会社警眼社謹製。
(3-12)大正9年(1920年)11月に大分県で行われた陸軍特別大演習の記念絵葉書と推定される。由布山と菖蒲の花のイラストを背景に、府内城(着到櫓)の写真があしらわれている。東京 株式会社警眼社謹製。
4.府内城下町
明治40年(1907年)頃の大分町(府内城下町)遠景です。現在の大分駅の北西付近にあった、大分地方裁判所から撮影されました。当時の大分町は、戸数4700、人口2万6千であり、右遠方に府内城の西南隅櫓が見えることから当時の城の存在感が伺えます。また、中央遠方に大分郵便局(2階建て)が見えます。明治40年に県立大分高等女学校を卒業した歌人の江口章子は、賑やかな城下町を『母の里 府内城下に籠つらね 春ごと聞きし うぐひすの声』という歌に詠みました。章子の母の実家は大分町の威徳寺で、境内には慶長豊後地震(1596年)の津波から免れたと伝わる巨木の松が昭和20年(1945年)の大分空襲で焼失するまで存在していました。
(4-1)明治40年(1907年)頃の大分町遠景。大分寫眞帖(明治40年)所収より
(4-2)『大分 碩田橋電車通の景』 碩田橋は、府内城の外堀(西側)に架けられていた橋の一つで、竹町通り入り口付近にあった。電車通りとは現在の中央通のこと。右側に大分郵便局、左側に明治33年(1900年)に開業した別大電車の線路が見える。左上に「皇太子殿下大分縣行啓記念 明治四十年十一月」の記念スタンプが押されている。
(4-3)『大分市威徳寺大樹ノ松 南東ヨリノ景』
5.御殿
府内城御殿やその内部を撮影した写真として、明治40年(1907年)11月の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の大分行啓時で宿泊されたときの写真が行啓写真帖に残されています。庭園に植えられた御手植松は今はなく、昭和20年(1945年)の大分空襲で焼失したと考えられますが、明治40年(1907年)5月の鳥取行啓時の御手植松は今も健在であり、百年の歳月を経て15メートルの大きな松となっています。
(5-1)明治40年(1907年)皇太子嘉仁親王(大正天皇)行啓時に宿泊された府内城御殿(左下)と、同庭園の御手植松の写真(右上)。
(5-2)明治40年(1907年)皇太子嘉仁親王(大正天皇)行啓時に宿泊された府内城御殿(大分県庁)内部
(5-3)明治40年(1907年)5月に鳥取を行啓された皇太子嘉仁親王(大正天皇)の御手植松の現状と、府内城御手植松(明治40年11月)の比較
※第6章と第7章は執筆途中です。7月18日(日)までに初稿完成予定。
6.絵葉書で見る府内城の経時変化
① 着到櫓
② 大手門
③ 宗門櫓
④ 西南隅櫓
➄ 天守台から見た松栄神社
⑥ 大正10年に竣工した大分県庁
⑦ 一丸デパート屋上から
⑧ 府内城周辺の施設
⑨ 戦後の府内城
7.おわりに 郷土愛を育む府内城
6.絵葉書で見る府内城の経時変化
(※まだ執筆中です。7月18日(日)に初稿完成予定)
① 着到櫓
明治40年頃の撮影。着到櫓付近に東の丸御殿の屋根の一部が見える。多聞櫓門(大手門)の屋根の上には鐘楼が設けられ、朝の出勤時や正午に時を告げる鐘が鳴らされた。また、戦前の府内城の堀では蓮が栽培され、北原白秋の『白雉城 お濠の蓮の ほの紅に 朝眼よろしも 妻のふるさと』という歌の題材にもなった。(※白雉城とは府内城の愛称。)大分寫眞帖(明治40年)より
② 大手門
③ 宗門櫓
④ 西南隅櫓
江戸時代に描かれた西之丸角櫓(西南隅櫓)の内部。(大分市役所の府内城案内より)
松栄神社所蔵「府内城諸櫓門図帖」大分市歴史資料館寄託 安政7年(1860年)に描かれた城内外43の櫓、門、番所のうちの一つ
現在の西南隅櫓内部。江戸時代の絵図と異なり、コンクリート柱による櫓建設となっている。
7.おわりに 郷土愛を育む府内城
(※まだ執筆中です。7月21日(水)に初稿完成予定)
写真(7-1)は西南隅櫓のあるお堀端を大分県立第一高等女学校(第一高女)の生徒が通学する風景です。当時は現在よりも堀の幅が広く、城内と堀端には大きな松が生い茂っていました。城内の松は空襲で焼失しましたが、堀端の松は今も残っており、樹木の生長によって歩道の妨げとなっていた樹齢百年以上の「傾きマツ」を含めて大分県による保存作業が進められています。
北原白秋が作詩した第一高女の校歌に『白雉城 しろきに風かほるこの道』という一節があります。白雉城は府内城の別称であり、白秋は妻の菊子(佐藤キク)を伴って府内城を訪れた時、『白雉城 お濠の蓮の ほの紅に 朝眼よろしも 妻のふるさと』という歌を詠んでいます。菊子は、白秋の先妻だった歌人の江口章子と共に第一高女を明治40年(1907年)に卒業しています。妻の故郷である府内城の堀でほんのりと紅く咲く蓮の花に癒される情景が伝わってくるようですね。
(7-1)第30回大分県立大分第一高等女学校卒業記念帖(昭和5年)より
また、大分県女子師範学校が製作した算数の教科書に、府内城を題材にして、どの径路を通ると最短距離で目的地に到達できるかという問題があります。
(以下、執筆途中)
コラム1.大分の郷土絵葉書の歴史
明治33年(1900年)に私製葉書が認可されて、通信面に写真を自由に印刷できるようになり、日露戦争をきっかけに写真絵葉書の国民的なブームが起こりました。大分県で最初に写真絵葉書を作成したのは別府の萩原定助(萩原写真局)で、「萩原号」という商標をつけて販売して好評を博しました。続いて和田周蔵(和田成美堂)も写真絵葉書を作成して、観光地別府の主要な御土産の一つとなります。
大分市では、明治40年(1907年)に嘉仁親王(後の大正天皇)の大分行啓をきっかけに宿泊された大分県庁のある府内城や、行啓所である大分県師範学校、大分県立中学校・高等女学校をはじめ、郷土の観光地の写真絵葉書が多く作られました。写真絵葉書を作成したのは、萩原号や和田成美堂の他に大分碩田号、大分審美堂、中山写真館、文化屋書店、宮崎書店、後藤商店など地元の写真館や書店が主体でした。第一次世界大戦後に、ドイツ兵の捕虜を収容した大正期(1914年~ )に、ドイツ語の説明文付きの観光絵葉書も大分碩田号から発売されています。
昭和に入ると、色鮮やかなコロタイプ印刷など高度な写真印刷技術を持っていた和歌山県の「大正写真工芸所」が大分の観光絵葉書のシェアを占めるようになり、明治~大正にかけて地元の絵葉書作成会社が撮影した写真も引き継いで販売するようになります。昭和12年(1937年)の軍機保護法の改正で高台からの撮影が制限されるなどの時代背景の中で、軍とのつながりが強い大手会社の方が写真絵葉書を作成しやすい環境になっていったのかもしれません。大正写真工芸社は、昭和20年(1945年)7月9日~10日の和歌山空襲で壊滅し、大分市も7月16日~17日の大分空襲で市街の大部分が焼失してしまいました。こうして戦前絵葉書の時代は終わりを告げます。
コラム2.絵葉書作成時期や視点場の推定について
絵葉書の作成年代について、もっともわかりやすいのは住所面の通信欄です。明治40年3月以前は、住所面に通信欄は設けられておらず、罫線もありませんでしたが、明治40年4月から住所面の3分の1に通信欄が設けられ、大正7年4月からは通信欄が2分の1の大きさになりました。また昭和8年からは住所欄の上部の「郵便はかき」の表示が「郵便はがき」へと変更されて、濁点がつけられるようになります。そのほか、消印や記念スタンプ、切手のデザインも作成時期を検討する目安になりますが、写真撮影の時期はさらに古い場合があることに注意しなくてはなりません。
写真撮影の時期や視点場については、映されている建物や設備の完成時期も参考となります。例えば大分県立高等女学校(後の大分県立第一高等女学校)と別大電車は明治33年(1900年)に始まり、鉄道の大分駅や大分市制は明治44年、二十三銀行(現在の大分銀行赤レンガ館)は大正2年、竹町2丁目に作られた旧大分銀行は大正4年、その向かいに作られた一丸デパートは昭和9年、電車通り(現在の中央通り)に作られたトキハデパートは昭和11年の創業です。風景写真では山の稜線や橋梁も視点場の推定の大きな手掛かりになります。
コラム3.大正天皇の大分行啓スケジュール
明治40年(1907年)11月、当時皇太子であられた大正天皇が御召艦香取に乗船されて、大韓帝国をはじめ、九州の長崎、鹿児島、宮崎を廻って大分に行啓されました。 (※まだ執筆中です。7月18日(日)に初稿完成予定)
執筆担当:森本 卓哉(もりもと たくや)
昭和43年(1968年)生まれ。大分市元町(現在の国指定大友氏遺跡)で育ち、大分市立金池小学校、上野ヶ丘中学校、大分県立大分上野丘高校、国立大分医科大学(現在の大分大学医学部)を卒業。同臨床薬理センター准教授を経て平成25年(2013年)より、豊後大野市三重町で地域医療に従事。令和3年(2021年)より佐伯市の医療法人慈恵会西田病院内科部長。 同院 『もの忘れ外来』 担当医。認知症サポート医 大分オレンジドクター 日本臨床薬理学会専門医 陸上自衛隊予備二等陸佐 大分上野丘高校同窓会アーカイブ委員長 著書「大分市の昭和」樹林舎 2016年
参考文献
○ 大久保利武ら 「大分縣案内」1902年
○ 渡辺克己編「ふるさとの思い出写真集明治大正昭和大分」図書刊行会 1979年
○ 大分放送「大分百科事典」1980年
○ 大分合同新聞社「秘蔵写真集 目で見る大分百年」 1986年
○ 大分放送「大分歴史事典」 1990年
〇 芦刈政治「戦国乱世の英傑 大友宗麟」大分県先哲叢書 1996年
○ 加藤貞弘「大分市・消えた町名その由来と暮らし」 大分合同新聞社 1997年
○ 香々地町文化協会「若き日、白秋大成に寄与した江口章子」1999年
〇 「目で見る大分市の100年」郷土出版社 2000年
〇 益田啓一郎「ふくおか絵葉書浪漫 アンティーク絵葉書に見る明治大正昭和の福岡県風俗史 平原健二・畑中正美コレクション」海鳥社 2004年
〇 松田法子「絵はがきの別府 古城俊秀コレクションより」 左右社 2012年
〇 学習院大学史料館「絵葉書で読み解く大正時代」 彩流社 2012年
〇 豊田寛治監修「大分市の昭和」樹林舎 2016年
〇 絵葉書資料館「絵葉書で見るタイムスリップ 神戸市ほか兵庫県編VOL.1 明治大正昭和」株式会社 タイムロマン 2019年
〇 小柳和宏「大友宗麟の城郭 (戦国大名の権力と城郭)」戎光祥出版 2020年
〇 高田徹「絵葉書から分析する近世城郭の建築と空間」戎光祥出版 2020年
〇 高田徹「近世城郭の謎を解く」戎光祥出版 2020年