このページでは、ご高齢の患者さんとのコミュニケーションツールとして効果があることが知られている『回想法』の題材として、昔の大分の風景(明治~昭和前期)の古写真や絵葉書、地図を展示しております。ご興味のある方は御笑覧ください。大分市から順次、県内の地域をアップしていきます。(※無断転載はお断りいたします。)

 

(目次)

1 戦前の大分市地図と鳥瞰図

2 大分町・大分市遠景

3 府内城とその周辺(県庁・市役所・県会議事堂)

4 大分駅前

5 電車通り・トキハ百貨店

6 竹町通り・一丸百貨店

7 裁判所・病院・物産陳列場(後の大分県立工業学校)

8 柞原・春日浦・駄原・金池・南大分

9   上野ヶ丘(大分高商周辺)・古国府・元町

10  上野丘(旧大分中学・現 大分上野丘高校周辺)

11  大分第一高等女学校(旧 長池町・現 大手町)

12  大分県女子師範学校と大分第二高等女学校(長浜町)

13  大分川・舞鶴橋・新川・祓川

14  菡萏(かんたん)港から大分港へ

15  別府湾・高崎山からみた別府市街

 

  

1.戦前の大分市地図と鳥瞰図

(1-1)大正10年(1921年)の大分市街図(高山活版社) 明治5年(1872年)に、府内城に大分県庁が置かれた後、明治22年(1889年)に大分町、明治44年(1911年)に大分市となった。この地図は大正10年(1921年)に開催された九州沖縄八県連合共進会に合わせて、府内城内に大分県庁が新築された際に作られた。当時の府内城は外堀がほぼ残っており、明治33年(1900年)に九州で初めて敷設された路面電車(赤色の線)や、明治44年(1911年)に開業した大分駅と鉄道が描かれている。なお、大分県では今も鉄道(JR)を利用するときに、「汽車に乗る」という言葉が方言として残っているが、九州で初めて路面電車が敷設された大分が早くから鉄道と路面の軌道を区別していた名残かも知れない(あくまで私見です(^^;)。大分市街新地図(大正10年・高山活版社)所収

⇩上図の大正10年(1921年)大分市地図(東半分)と(西半分)

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(1-2)大正14年(1925年)大分市の地図(毎日新聞)東宮殿下(後の昭和天皇)御成婚を記念して作成された大分市街図。地図(1-1)と比較すると、府内城の外堀の西側が埋め立てられて、郊外に向かって街が発展していることがわかる。大分市の北西にある菡萏(かんたん)港は明治15年(1882年)に作られ、大正4年(1915年)に東側に向かって拡張した港が完成した。大分港の西側(旧港)に菡萏(かんたん)遊郭の記載があり、当時の世相が伺える。毎日新聞 東宮御成婚記念(大正14年)所収

⇩上図の大正14年(1925年)大分市地図の拡大図

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 (1-3)昭和8年(1933年)の大分市地図 当時は大分川が市の境だった。弁天島河口の埋立が進み、府内城の北側(現在の中島町や城崎町など)の街が碁盤の目状に整備されている。市街地と南大分を結ぶ大道峠は高低差が大きく、鉄道が迂回して敷設された。大分市街新地図(昭和8年)所収

⇩上図の昭和8年(1933年)の大分市地図(北半分)と(南半分)

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(1-4)昭和12年(1937年)の大分市の鳥瞰図(クリックすると強拡大されます) 昭和12年(1937年)の大分市の鳥瞰図。上野丘に「大分中学」、大分県庁の南に「第一高女」、長浜町に「女子師範」(第二高女と併設)の記載がある。中央通りに昭和11年に開店した「トキハ百貨店」と、竹町通りに昭和9年に開店した「一丸デパート」が見える。また、大分川の東に「海軍飛行場予定地」の記載がある。昭和14年に大分海軍航空隊開設、戦後の米軍接収を経て昭和31年に返還され、昭和46年国東移転まで大分空港として使用された。海陸四通八達の大分市 大分市役所(昭和12年)所収

 

(1-5)昭和11年(1936年)の大分市の観光案内図 地図(1-4)に比べて簡略化されているが、市内の主な公共施設や観光地がわかりやすい。凡例に汽車(鉄道)と電車(路面電車)がわかりやすく書かれている。観光の大分 大分市役所産業課(昭和11年)所収

  

2. 大分町・大分市遠景

(2-1)明治40年1907年)頃の大分町遠景 現在の大分駅の北西付近にあった、大分地方裁判所(写真7-1)の屋根の上から撮影した風景。当時の大分町は、戸数4700、人口2万6千だった。右遠方に府内城の西南隅櫓が見えることから当時の城の存在感が伺える。また、中央遠方に大分郵便局(写真5-3)が見える。明治39年に県立大分高等女学校(現在の大分上野丘高校の前身)を卒業した歌人の江口章子は、賑やかな城下町を『母の里 府内城下に籠つらね 春ごと聞きし うぐひすの声』という歌に詠んだ。章子の母の実家は大分町の威徳寺で、境内には慶長豊後地震(1596年)の津波から免れたと伝わる巨木の松が昭和20年(1945年)の大分空襲で焼失するまで存在していた(写真8-7)大分寫眞帖(明治40年)所収 

(2-2) 大分市全景其一・其二 水田のある郊外から市街地を望む。御土産として販売されていた『大分名勝』のほかの彩色写真から、昭和10年(1935年)頃の撮影と思われる。『大分名勝』所収

 

 (2-3) 西大分から、大分港と春日浦海岸を望む 戦後に海岸が埋立てられる前の、美しい松林が広がる風景。海岸の松は、慶長豊後地震(1596年)による津波で荒廃した海岸部を整備するために、府内藩主の竹中重利が慶長12年(1607年)に10万本を植えたと伝えられる。戦前の絵葉書所収

(2-4) 昭和9年(1934年)頃の大分市街 竹町2丁目の一丸デパート屋上から北東方向を撮影ており、写真中央遠方に府内城の西南櫓・宗門櫓・多聞櫓門(大手門)が見える。手前の竹町通りの入口付近(写真の右端中央)を中心に白い天幕が断続的に張られている。竹町通り入口から電車通りを渡って左にある2階建ての大きな建物(写真中央)は大分郵便局で、その左は大分新聞社(後の大分合同新聞社)。戦前の絵葉書所収

(2-5) 昭和9年頃の大分市街 竹町2丁目の一丸デパート屋上から南東方向(大分駅がある方向)を撮影。左端に大分合同銀行(戦後の大分銀行)が見える。手前の一丸ふとん店がある通りは竹町通りにつながる本町通りで、レコードのヱトウ南海堂や、忠文堂、糸永洋品店、モリヤス、阿南洋服店などが並んでいた。戦前の絵葉書所収

 (2-6)昭和5年頃の大手町(当時 長池町)を中心とする航空写真。写真の右が北で、上が西方向。右上端に府内城の西南櫓と堀が見える。写真の手前に大分第一高等女学校の全景が見える。また、左上遠方に竹町商店街に張られた白い天幕が見える。大分第一高等女学校創立三十周年記念誌(昭和5年)所収

 

(2-7) 昭和8年(1933年)頃の大分市街(航空写真)写真には写っていないが、写真の左(南)が大分駅の方向で、右(北)が府内城がある方向。写真の中央を斜めに走る広い通りが現在の中央通り(当時の電車通り)で、大分合同銀行や竹町通り入口から続く白い天幕が見える。電車通り沿いの大分合同銀行(戦後の大分銀行)の北側道路を挟んだ広い空地に、トキハ百貨店が昭和11年に建設される。大分市勢要覧(昭和8年)所収

 

(2-8) 昭和23年(1948年)10月7日の大分市街(航空写真)写真右が北、上が西方向。終戦後の昭和23年に米軍機から撮影された写真で、空襲を受けた爪痕と復興の様子が伺える。写真右下端に府内城左に大分駅が見えるが、堀を隔てた大分県立第一高等女学校など一連の施設が無くなっている。画面中央に焼失を逃れたトキハ百貨店の4階建ての白い建物が見え、その隣にあった旧大分合同銀行本店は外壁のみが残り、翌年の昭和24年に修復された。戦前の繁華街だった竹町通りも一丸百貨店があった建物を含めて全焼し、空地が続いている。大分市勢要覧(昭和8年)所収

 

 3. 府内城 県庁 議事堂 市役所 など

  (3-1) 明治30年代の府内城 手前から東の丸着到櫓、多聞櫓門(大手門)、宗門櫓、西南隅櫓を望む。府内城は明治5年(1872年)に県庁が置かれて以来、大分県のシンボルとなった。明治18~19年に大分で起こった大規模な台風被害から気象観測の重要性が認識され、明治20年(1887年)に着到櫓を「大分測候所」と定めて屋根上に観測施設を設け、明治41年に長浜町に移転するまで気象観測が行われていた(現在の大分地方気象台)。写真では着到櫓の窓にガラス板が設置されている。なお着到櫓は他の櫓と同じように1階南側の窓は元々2つだったが、写真(3-2)のように明治40年(1907年)頃から4つに増設される。戦前の絵葉書所収

 

   (3-2) 明治40年以前の府内城 『明治40年11月皇太子殿下大分縣行啓記念』というスタンプが押されており、嘉仁親王(後の大正天皇)が大分に来県した際に府内城を御宿泊所とした際の記念葉書である。写真(3-1)と比較して、着到櫓の1階南側の窓が4つに増設されているが、気象を観測する測候所としての採光や、行啓時の環境整備などの目的があったのかもしれない。なお写真左端の西南隅櫓の南面の窓は写真(3-13)と同じ板張りであり、ほぼ同じ時期の撮影であることが伺える。戦前の絵葉書所収

(3-3)明治40年頃の府内城 着到櫓付近に東の丸御殿の屋根の一部が見える。多聞櫓門(大手門)の屋根の上には鐘楼が設けられ朝の出勤時や正午に時を告げる鐘が鳴らされた。また、戦前の府内城の堀では蓮が栽培され、北原白秋の白雉城 お濠の蓮の ほの紅に 朝眼よろしも 妻のふるさとという歌の題材にもなった。(※白雉城とは府内城の雅名。白秋の歌碑は府内城東の丸の堀を挟んだ公園内に設置されているが、歌碑の案内板がないのは残念。) 大分寫眞帖 (明治40年)所収

(3-4)明治40年~41年頃の府内城 着到櫓の屋根上に気象観測設備があることと、西南隅櫓の南側の窓が白色であることから、写真(3-3)の撮影時期と近いと思われる。写真(3-3)との違いは、大手門口への通路の両脇に植木が植えられていることであり、わずかに撮影時期が写真(3-3)より後であることが伺える。戦前の絵葉書所収

 (3-5)明治40年~41年頃の府内城 大手門口への通路の両脇の植木から、写真(3-4)とほぼ同じ時期に撮影されたと思われる。1階のガラス窓越しにカーテンが見える。堀で栽培されていた蓮の収穫後の撮影。戦前の絵葉書所収

 (3-6)大正10年頃の府内城 明治41年まで着到櫓の屋根上にあった測候施設は外されている大正時代の絵葉書。大正10年(1921年)に大分県が主催した第14回九州沖縄八県連合共進会に合わせて、府内城内の内々掘を埋めて広い面積を確保した後、西の丸に洋風の新しい大分県庁が竣工した。多聞櫓門(大手門)の背後に県庁の屋根が見えるが、完成したばかりの大分県庁は九州沖縄八県連合共進会で第一会場となった。戦前の絵葉書所収

 (3-7)昭和10年頃(1935年)の府内城 明治期に取り付けられた窓ガラスが外されて白い格子が入れられており、この写真で着到櫓の破風の意匠や格子、鉄砲挾間の配置などがよくわかる。また、大手門の左に大分県庁の屋根と、西南隅櫓の遠方に高崎山の稜線の一部が見える。高崎山は中世に大友氏の城が築かれ、山頂に狼煙台など通信施設を備えた要害であった。戦前の絵葉書所収

 (3-8)昭和10年(1935年)頃の府内城 写真(3-7)とほぼ同じ時期の撮影と思われる。明治期から着到櫓に設置されていた窓ガラスが外され、再び格子が取り付けられている。戦前の絵葉書所収

(3-9)写真(3-8)とほぼ同じ角度から撮影された彩色写真。写真下の解説文は白雉城(はくちじょう:府内城の雅名)の間違いと思われる。『大分名勝』所収 

(3-10)大正10年~昭和初期の府内城 着到櫓の2階から大手門や西南隅櫓などを望む西方向を撮影したと思われる。大正10年に西の丸に新築された大分県庁の建物や宗門櫓の内側の城壁も一部認められる。堀の真向いにある武家屋敷は江戸時代に府内藩家老岡本主米の屋敷や勘定所があり、その奥の浄安寺に明治時代に入ってから最初の府内学校が置かれた。岡本主米の屋敷跡は昭和になって大分県教育会館が建てられ、現在は大分市役所が建設されている。戦前の絵葉書所収

 (3-11)明治末から大正期の府内城。府内城の大手門入り口付近から、西南隅櫓(西方向)を写した写真。堀を挟んで真正面遠方に武家屋敷(元 府内藩家老岡本主米屋敷)の長屋門や、堀の南側に面する武家屋敷の塀が見える戦前の絵葉書所収

 (3-12)(3-11)と近い角度で撮影されている。大手門への通路中ほどから、西の丸の西南隅櫓、宗門櫓を撮影した写真。遠景中央の堀を隔てて武家屋敷の長屋門が見えるが、江戸時代は府内藩の岡本主米の屋敷や勘定所であった。その後、昭和8年(1933年)に大分県教育会館、昭和52年(1977年)には現在の大分市役所の新庁舎が建設されることになる。戦前の絵葉書所収

 (3-13)明治35年頃の府内城 西の丸の西南隅櫓から東側を望むアングルで撮影された写真。手前から西の丸の西南隅櫓、宗門櫓、多聞櫓門(大手門)、東の丸御殿、着到櫓。西南隅櫓の東側の城壁と石垣に修復後と見られる段差がある。この角度から東の丸御殿の入母屋屋根が複数見える。撮影当時の大分県知事は大久保利武(大久保利通の三男)であり、4年間の在任中に役所の綱紀粛正や統計整備をはじめ、『大分縣案内』『大分方言類集』などの編纂を行い、大分の地域振興の礎を築いた。大分縣案内(明治35年)所収

 (3-14)明治40年頃の府内城 大正天皇が東宮殿下(皇太子)だった嘉仁親王時代の明治40年(1907年)11月に大分を行啓して、府内城東の丸御殿に宿泊された時の記念絵葉書。東の丸御殿の大きな入母屋屋根が見える。なお、およそ5年前の写真(3-13)に比べて、西南櫓の窓や城壁などが修復されて白色となっている。行啓時には電車通りや大分港に奉迎門(写真5-2、写真14-5)が作られ、提灯行列が開催されるなど、盛大な歓迎行事が行われた。戦前の絵葉書所収

 (3-15)明治40年頃の府内城 着到櫓に観測設備があることや、城壁などの修復状況から写真(3-14)とほぼ同じ時期に撮影されたと思われる。東の丸御殿の大きな入母屋屋根が見える戦前の絵葉書所収

 

(3-16)明治末~大正初期の府内城 写真(3-13~15)の撮影時期にはなかった、東の丸御殿に長い屋根を持つ新しい建物が立っている。また、大手門への通路に沿った植樹があることから、写真(3-5)とほぼ同じ時期に撮影されたと思われる。写真(3-17)と2枚続きになった左側の絵葉書。戦前の絵葉書所収

(3-17)明治末~大正初期の府内城 写真(3-16)と2枚続きになった右側である。西南隅櫓の窓や城壁の修復状態などから、明治末~大正初期の撮影と思われる。後に大正10年の県庁新築に伴い、西側通路が建設されるがこの時はまだない。戦前の堀に栽培されていた蓮に花が咲いている。北原白秋の歌白雉城 お濠の蓮の ほの紅に 朝眼よろしも 妻のふるさとの風景である。白秋は糖尿病で眼を患っていたが、府内城にほんのりと紅く咲く蓮の花を見て、妻の故郷を視覚的に実感した様子が描かれている。この歌に登場する白秋の妻は旧姓 佐藤キク(菊子)で、大分県立高等女学校の卒業生(第3回生)であった。キクは白秋の前妻である江口章子と大分高女で同窓であり、白秋は2人の妻を通じて大分と縁があった。現在の府内城東側の堀を挟んだ公園に歌碑がある。戦前の絵葉書所収

(3-18)明治末~大正初期の府内城  写真(3-16)と(3-17)をつなげた二枚続きのパノラマ風景。戦前の絵葉書所収

(3-19)府内城の西側の堀と武家屋敷(明治末~大正初期) 写真(3-16~18)と同時期でさらにその左側(西側)が撮影されている。写真左に武家屋敷の塀が見えるが、ここには江戸時代に府内藩家老岡本主米や勘定所の屋敷があった。写真手前から遠方にかけて、後に大分市役所や大分県教育会館大分県公会堂さらに公会堂が空襲で焼失してからは磯崎新氏設計の大分県立図書館(現 大分市アートプラザ)などの重要施設が並ぶことになる。また、大正10年の大分県庁新築に伴って西側の通路が建設されるが、この写真ではまだ認められない。戦前の絵葉書所収

(3-20)明治末~大正初期の府内城 西南隅櫓、宗門櫓、多聞櫓門(大手門)、東の丸御殿、着到櫓が見える。西南隅櫓の北側の城壁の色が白でなく(写真左端)、写真(3-16-19)とほぼ同じ時期の撮影と考えられる。戦前の絵葉書所収

 (3-21)大正初期の撮影と思われる府内城 西の丸に新県庁の屋根が見えないことから、大正10年以前の撮影と思われる。戦前の絵葉書所収

 

 (3-22)大正6年(1917年)頃の府内城イラストのある絵葉書 府内城のイラストの西南隅櫓、着到櫓、東の丸御殿の大きな入母屋屋根などが描かれている。絵葉書中央の2つの写真は、電車通りに大正2年に竣工した二十三銀行本店(後の大分合同銀行、戦後の大分銀行)と、大正6年に同じく電車通り東上市(現在の大分フォーラス付近)に竣工した大分市役所(右)。この大分市役所は昭和7年11月に火災に遭って全焼したため、仮施設を経て昭和12年に府内城西側の御堀端に新築移転して、現在に至る。戦前の絵葉書所収

(3-23)大正期~昭和初期の府内城 手前から府内城の西南櫓、宗門櫓、多聞櫓門(大手門)、東の丸御殿、着到櫓を望む。西の丸に新築された大分県庁の屋根が見えることから、撮影時期は大正10年以降と思われる。なお写真(3-22)まで見えていた東の丸の大きな入母屋屋根がある建物が見当たらず、西の丸に県庁が新築された後、取り壊されたと思われる。戦前の絵葉書所収

(3-24)昭和14年頃の府内城 大正期の写真まで確認された東の丸の大きな入母屋屋根のある建物がなくなっている。また、堀の蓮が収穫されており、城内の木の葉の状態から冬に撮影されたと思われる。大分高等商業学校卒業写真帖(昭和15年)所収

(3-25)昭和10年代の府内城 写真(3-24)に近い時期の撮影と思われる戦前の絵葉書所収

(3-26)昭和10年代の府内城 写真(3-25)を彩色したもの。戦前の絵葉書所収

(3-27)昭和5年頃の府内城西南隅櫓付近 西南隅櫓のお堀端を通学する大分第一高女生。大分県立第一高等女学校は、現在の大分県庁がある大手町(当時 長池町)にあり、府内城のお堀端は通学路だった。第一高女校歌にも、『白雉城 しろきに風かほるこの道』と歌い込まれている(※白雉(はくち)城は府内城の雅名)。当時の府内城は現在よりも堀が広く、城内とお堀端には巨大な松が生い茂っていた。第30回大分県立大分第一高等女学校卒業記念帖(昭和5年)所収

 

 

 

 

 

 

 

(3-28)昭和12年以降、戦前の大分市役所と府内城の西南隅櫓 時局下 大分縣の相貌 大分新聞社 所収

(3-29)明治40年頃の府内城東の丸御殿 明治40年(1907年)の嘉仁親王(後の大正天皇)の大分行啓の際のご宿泊所として使用される。東の丸御殿の庭園に嘉仁親王による御手植松が植えられた。残念ながらこの御手植松は失われているが、鳥取県米子市には同じ年に行啓された嘉仁親王の御手植松が残っており、約15メートルの大きな松に育っている。行啓寫眞帖(明治40年)所収

(3-30)明治40年頃の府内城東の丸御殿 嘉仁親王(後の大正天皇)がお泊りになった御殿内部。行啓寫眞帖(明治40年)所収

(3-31)大正10年の府内城大手門入口風景 大正10年に九州沖縄八県連合共進会が大分市で開催され、西の丸に新築された大分県庁は「第一会場」となった。写真左端に、新県庁の屋根の一部と、鐘楼を備えた多聞櫓門(大手門)が見える。第14回九州沖縄八県連合共進会写真帖(大正10年)所収

(3-32)大正10年の府内城西口の風景 大正10年に府内城西の丸に新築された大分県庁へのアクセスを高めるために、それまでになかった西側から城内に入る通路と入口を新しく設けた。第14回九州沖縄八県連合共進会写真帖(大正10年)所収

(3-33)大正10年の府内城西口への道路風景 電車通りの「にあげまち」停留所付近(現在の読売新聞社大分支社あたり)から、府内城西口に至る道路を撮影した写真。中央遠方に新築された大分県庁が見える。「にあげまち」停留所から府内城西口に至るまで、荷揚町小学校(撮影当時は女子小学校)や大分県公会堂があった。第14回九州沖縄八県連合共進会写真帖(大正10年)所収

(3-34)大正10年頃の府内城宗門櫓と多聞櫓門(大手門)、西の丸の大分県庁 建物の角度より、大分県会議事堂の2階から撮影されたものと思われる。第14回九州沖縄八県連合共進会写真帖(大正10年)所収

 

 (3-35)大正10年に新築された大分県庁 大正10年の九州沖縄八県連合共進会は大分市で開催され、府内城西の丸に新築された大分県庁は「第一会場」となった。写真右に、九州沖縄八県連合共進会(大正10年3月)のスタンプが押されている戦前の絵葉書所収 

(3-36)大正10年に新築された大分県庁 彩色写真のようにモダンな赤い屋根が戦後まで大分県民に広く親しまれ、昭和40年(1965年)に現在の大手町に大分県庁が新築移転される際に地元民からこの建物の保存請願運動も起こったという。『大分名勝』所収

(3-37)府内城内の大分県庁と多門櫓門(大手門)の彩色写真。戦前の絵葉書所収 

(3-38)昭和23年(1948年)頃の府内城人質櫓 昭和23年10月撮影の航空写真(2-8)とほぼ同じ、戦後間もない時期の撮影。空襲を避けるために施されていた迷彩塗装に加えて、城壁をはじめ屋根瓦や鯱の損傷が激しかったことが伺える。昭和20年7月の大分空襲で市街は焼野原となり、府内城で江戸時代から現存する櫓は人質櫓と宗門櫓の2基のみとなった。大分経済専門学校(旧 大分商業高等学校)卒業記念帖(昭和24年)所収

 (3-39)明治35年頃の松栄神社  府内城天守台から撮影された写真。大分縣案内(明治35年)所収

(3-40)府内城天守台から撮影された写真。(※当時は現在のような階段がなければ、天守台の上まで登ることは大変だったかもしれません。。)  戦前の絵葉書所収

(3-41)府内城の天守台から続く北二階櫓台から撮影された松栄神社。遠くに春日浦海岸の松林が見える。戦前の絵葉書所収

 (3-42)明治35年頃の大分県会議事堂 撮影された角度から、府内城東の丸の着到櫓から撮影されたと思われる。左遠方(南西方向)に霊山の稜線が見え、手前には城下町の風景が広がる。大分縣案内(明治35年)所収

 (3-43)大分県会議事堂 昭和20年の空襲で県会議事堂は焼失するが、玄関前の蘇鉄は現在も大手公園に残り、樹齢330年の大樹となっている。戦前の絵葉書所収

 (3-44)大分県会議事堂の彩色写真 昭和20年の空襲で県会議事堂は焼失するが、玄関前の蘇鉄は現在も大手公園に残り、樹齢330年の大樹となっている。『大分名勝』所収

 

(3-45)大分市役所   戦前に府内城の堀を挟んで東側に作られた大分市役所。左の建物は大分県教育会館。写真(3-44)参照。戦前の絵葉書所収

(3-46)大分県教育会館  府内城の西側の堀を隔てて昭和8年(1933年)に建設された大分県教育会館。後に北側に隣接して大分市役所が建てられる。戦後に府内城内の旧大分県庁が移転して大分文化会館が建設されるまで、主要なホールとして利用されていた。戦前の絵葉書所収

(3-47大分県公会堂 府内城西側の堀を隔てたお堀端に建設され、戦前の大きな行事や演説会などに使用された。昭和20年に空襲で焼失した公会堂跡地には、世界的建築家である磯崎新氏の設計で有名な大分県立図書館(現 大分市アートプラザ)が建設された。戦前の絵葉書所収

 

  

4.大分駅

(4-1) 大分停車場と高崎山の稜線(明治44年頃) 当時、鉄道の駅は「停車場」と呼ばれていた。駅の南側(現在の上野の森口)から西方向に向かって撮影された風景で、写真の左端に高崎山や鶴見山の稜線が見える。当時は駅周辺に高い建物がなかった。高崎山の稜線は、戦前の府内城(3-7)や大分第一高等女学校の写真(11-4)遠景にも映っている。戦前の絵葉書所収

 

※大分駅前についての詳細は、『戦前の大分駅前』をご参照ください。

 

(4-2) 大分駅前の彩色写真(昭和10年頃) 駅舎の前の大きなクスノキがシンボルであり、「夫婦クスノキ」の名で親しまれた。夫婦クスノキは昭和39年(1964年)に伐採され、今も大分駅に保管されている能面や、鉄道神社などの用材に使われた。『大分名勝』所収

 

(4-3) 大分駅前(昭和14年頃) 駅舎前のクスノキは、豊後一宮である柞原八幡宮のある山から移植されたという言い伝えがある。以後、県を代表する銘木となったが、戦前から戦後にかけての出征や復員を送迎する場面などで想い出の象徴だったという。大分市勢要覧(昭和14年)所収

 

(4-4) (大分名所)駅前通りの活況 大分駅舎の北側(現在の府内中央口)から見た駅前広場。右端に吉島食料品店と、写真(2-4)のメニューにある『櫻ようかん』の看板が見える。和初期か。戦前の絵葉書所収

 

 (4-5)大分駅前 吉島食料品百貨店の広告 写真(2-3)の右端に映っている「吉島食料品店」の看板にある『櫻羊羹(さくらようかん)』のほか、大分に由来する名前(豊後梅、春日、白雉=府内城の雅名)をつけたお土産や、コーヒーやライスカレー、文化親子丼などのメニュー広告。大分驛前 吉島食料品百貨店広告 所収

 

     

5.碩田(電車)通り・トキハ

(5-1) 豊後電気鉄道大分駅 明治33年(1900年)に九州で初めて路面電車を開設した豊後電気鉄道の大分駅停留所。鉄道の大分駅が明治44年(1911年)に完成する前の路面電車の大分停留所は碩田橋(現在の竹町通り商店街入り口)付近にあった。後に電車通りという通称が有名となった。現在の中央通り(トキハデパート前の6車線道路)。戦前の絵葉書所収

(5-2) 碩田橋奉迎門(大分町)明治40年(1907年)11月に、嘉仁親王(後の大正天皇)の大分行啓に際して、電車通りの竹町商店街入り口付近に設けられた奉迎門。路面電車の電線を通す大きな門であった。行啓寫眞帖(昭和40年)所収

 

(5-3) 大分碩田橋電車通の景 大分郵便局 「明治40年11月 皇太子殿下大分縣行啓記念」のスタンプが押されており、写真(5-2)と同じ時期の撮影。路面電車は単線で、電線と電信線が巡らされている。写真の右手は大分郵便局で、後に電車通りに面した西側に正面玄関が設けられた。戦前の絵葉書所収

 

(5-4) 大分碩田橋通(電車通)写真の通り左側遠方に第二十三銀行(後の大分合同銀行)と大分郵便局と手前左に大分新聞社が見える。戦前の絵葉書所収

 

 (5-5) 大分新聞社(後の大分合同新聞社)電車通りの大分郵便局の隣にあった大分新聞社。昭和17年(1942年)に豊州新報社と合併して大分合同新聞社となる。戦前の絵葉書所収

 

 (5-7) 大正2年(1913年)に電車通りに建設された二十三銀行 大分を拠点とする二十三銀行は渋沢栄一の事業理念を継承し、出光興産が大手銀行の貸しはがしにあって困窮した際に、2度に亘って融資を実行したことは小説「海賊と呼ばれた男」などでよく知られている。後に昭和2年(1927年)に竹町の大分銀行と合併して大分合同銀行となり、戦後の大分銀行の前身となった。二十三銀行からのエピソードで、現在も大分銀行と出光興産の取引は続いている。戦前の絵葉書所収

 

 (5-8) (大分名勝)碩田通り 碩田通り(電車通り)の彩色写真『大分名勝』所収

  (5-9) 昭和14年(1939年)頃の電車通りとトキハ百貨店  今も大分県を代表するデパートとして知られるトキハ百貨店は、昭和11年(1936年)に電車通り沿いの大分合同銀行(戦後の大分銀行)の隣に開店した。手前には大分バス本店が見える。路面電車の背後(上)に、大分のモダンなカフェ(喫茶店)として有名だった「SANPAULO(サンパウロ)」の看板が見える。大分市勢要覧(昭和14年)所収

 

 (5-10) 戦前のトキハ百貨店 昭和10年に電車通り沿いに開店したトキハ百貨店は、4階建ての鉄筋コンクリート製であり、昭和20年(1945年)の戦災を逃れた。時局下 大分縣の相貌 大分新聞 所収

 

 (5-11) 電車通り沿いの大分県農工銀行  この建物も空襲の被害を免れて、現在もみずほ銀行大分支店として使用されている。戦前の絵葉書所収

(5-12) 昭和10年頃の電車通り 複線の線路が広がって、右手の映画館や左手の二見屋旅館や金洋堂書店、高山活版社などが軒を連ね、ハイカラと呼ばれた街を構成していた。戦前の絵葉書所収

 

 (5-13) 昭和10年頃の電車通りの夜景 写真右端にスズラン燈が灯っている竹町通り商店街の入口が見える。大分高等商業学校卒業記念寫眞帖(昭和10年度)所収

 

(5-14)昭和8年(1933年)頃の電車通り 4階建てのトキハ百貨店屋上か見た、電車通りの風景。複線となった路面電車が2台並んでいるところが、「たけまち」停留所。写真右側の通りに旧大分合同銀行本店、左側の通りに二見屋旅館や金洋堂書店があった。大分市勢要覧(昭和25年)所収

 

 (5-15) 昭和20年(1945年)終戦直後の電車通り 上の写真と同じトキハ百貨店の屋上から見た電車通りの風景。大分市街地は集中的に爆撃され、右側の通りに旧大分合同銀行本店は焼け落ち、外壁だけが残った。手前から二番目の路面電車が「たけまち」停留所付近にあるが、竹町通り入口付近を含めた一面が焼野原となっていることがわかる。大分市勢要覧(昭和25年)所収

 

 (5-16) 昭和25年(1950年)頃の電車通り 上の写真と同じトキハ百貨店の屋上から見た電車通りの風景。右手前の旧大分合同銀行(後の大分銀行)は空襲で建物の外壁を残すのみとなったが、昭和24年に修復された。電車通り左側に屋台のお店が並んでいる。大分市勢要覧(昭和25年)所収

  

6. 竹町通り 一丸百貨店 旧大分銀行

 

竹町についての詳細は、『戦前の竹町通り商店街』をご参照ください。

  (6-1) 明治40年頃の竹町通り 右手前の眼鏡の形をした看板が見える店は矢野眼鏡店(現在の株式会社ヤノメガネ本店)。戦前の絵葉書所収

 

 (6-2)  昭和初期の竹町通り 入口のアーケードと、断続的に張られている白い天幕、スズラン(鈴蘭)燈が見える。アスファルトブロックで舗装された通りを自転車が走っている。戦前の絵葉書所収

 

 (6-3) 昭和10年(1935年)頃、竹町通りの夜市の風景。名物となっていたスズラン(鈴蘭)燈が灯り、左遠方に竹町2丁目の通りに向かい合って、一丸百貨店と、右遠方に旧大分銀行本店の輪郭が見える。大分高等商業学校卒業記念寫眞帖(昭和10年度)所収

 

 (6-4) 昭和14年(1939年)頃、竹町通りの風景。名物のスズラン(鈴蘭)燈と、左手遠方に竹町2丁目の一丸百貨店と右側遠方に大分銀行が見える。大分市勢要覧(昭和14年)所収

 

 (6-5) 竹町通り2丁目の旧大分銀行本店。通りの真向いの一丸百貨店と共に、竹町通りのシンボル的な存在だった。戦前の絵葉書所収

 

  (6-6) 大分初の百貨店(デパート)となった一丸とトキハとの広告 一丸百貨店は昭和9年(1934年)、トキハ百貨店は昭和11年(1936年)に開店した。観光の大分県(昭和12年)所収

 

 (6-7) 一丸百貨店の内部 昭和12年頃の一丸百貨店の売り場の様子。建物は昭和20年(1945年)の大分空襲で焼失した。時局下 大分縣の相貌 大分新聞 所収

  

7. 裁判所、病院、物産陳列場

(7-1)明治40年頃の大分県地方裁判所 大分駅の西隣りにあり、写真(2-1)府内城下町の遠景はこの屋根上から撮影された。大分寫眞帖(明治40年)所収

 

  (7-2) 大分県立病院と看護師 戦前の絵葉書所収

 (7-3)日本赤十字社大分支部 現在のオアシスタワーホテルの隣にあった。大分寫眞帖(大正9年)所収

(7-4)大分県立物産陳列場 後に大分県立工業学校となる。戦前の絵葉書所収

 

  

8.柞原・春日浦・駄原・金池・南大分

 

(8-1)柞原神社 豊後国一宮。豊臣秀吉から「鎮西一、西国無双、日本一」と激賞され、徳川家康から家光まで厚く信頼された立花宗茂を育てた戸次道雪(べっきどうせつ、後に筑後国の立花家を継承)の母が安産祈願を行った記録もある。大分名勝 所収

  (8-2)戦前の春日浦 大分名勝 所収

 

(8-3)明治40年頃の春日浦海岸 大分寫眞帖(明治40年)所収

 

(8-4)春日浦の松原と路面電車 戦前の絵葉書所収

(8-5)明治40年頃の大分県師範学校と附属小学校正門 昭和20年の空襲で焼失する。大分寫眞帖(明治40年)所収

 (8-6)春日神社 拝殿。昭和20年の空襲で焼失するが、戦後再建される。『大分名勝』所収

(8-7)威徳寺境内の松 威徳寺にあった大きな松で、伝説の瓜生島(沖の浜)から移されたという言い伝えのある銘木だった。私見だが東日本大震災での一本松のような存在だったのかもしれない。戦災で焼失。『大分名勝』所収

 

 (8-8) 明治40年頃の歩兵第72連隊 後に歩兵第47連隊となる。今の大分市駄原から王子町にかけて、大分県立図書館や大分大学附属小中学校、大分県立西高校な度を含む広大な土地にあった。大分寫眞帖(明治40年)所収

 (8-9)大分72連隊営所の全景 明治末期と思われる。写真遠方(東方向)に南大分から大分市街に入る街道筋や田園風景が広がる。下の写真(7-14)の遠景に広がる山側からの撮影。戦前の絵葉書所収

(8-10)歩兵第72連隊の訓練風景 歩兵第72連隊は、現在の大分大学附属小中学校や大分県立西高校、大分県立図書館が含まれる広い敷地内にあった。背後の山やその周辺は、今では王子山の手や高崎の住宅地になっている。戦前の絵葉書所収

 (8-11)明治35年頃の大分高等小学校 現在の金池町に明治20年に開校した。明治35年に当時九州一の規模を誇る校舎が完成し、明治41年大分第一尋常高等小学校となる。現在の大分市立金池小学校。大分縣案内(明治35年)

 

(8-12)万寿寺 大分市金池町にある。百合若大臣伝説をはじめ、大友家に縁の深い名寺。戦前の絵葉書所収

 (8-13)大分県立農事試験場(南大分)の風景 南大分に建設された大分県立農事試験場の田園と、遠方に霊山が見える。霊山については(12-2)参照。前の絵葉書所収

 (8-14)大分県立農事試験場(南大分)の風景 南大分に建設された大分県立農事試験場の田園と、遠方に霊山(右)と本宮山(左)が見える。前の絵葉書所収

 

 (8-15)南大分から大分市街に向かう街並みの繁栄の様子 戦前の絵葉書所収

  

9. 上野ヶ丘(大分高商周辺)・古国府・元町

 (9-1)大分高等商業学校の卒業アルバムや同窓会誌では「上野ヶ丘」という記載であり、現在の大分市立上野ヶ丘中学の記載と同じである。『大分名勝』所収

 (9-2)大分高等商業学校卒業写真記念帖(昭和2年)(昭和2年所収

 

  (9-3)大分高等商業学校卒業写真記念帖 所収 写真中央に大分高等商業学校のグランドと校舎が見え、写真右上端には大分中学(現在の大分上野丘高校)の校舎が見える。

 

 (9-4)写真上が東方向(元町、古国府方面)で、大分川が流れている。 大分高等商業学校卒業写真記念帖 所収

 

 (9-5)写真上が北方向で金池、長浜方面。地図(1-2)を参照するとわかりやすいです。)大分高等商業学校卒業写真記念帖 所収

 

 (9-6)大分高等商業学校があった上野ヶ丘から西に向かって高崎山や鶴見山を遠景にした風景(現在は大分県立文化技術短期大学が建つ)戦前の絵葉書所収

 

  (9-7)大分高等商業学校より、由布山、高崎山、鶴見山を望む。大分高等商業学校卒業写真記念帖 所収

 

 (9-8)元町石仏(昭和2年頃)大分高等商業学校卒業写真記念帖 所収

 

  

10.上野丘(県立大分中学周辺)

 (10-1)明治40年11月に嘉仁親王(後の大正天皇)が訪問された際の記念絵葉書 戦前の絵葉書所収

 

(10-2)大分中学 明治末~大正初期の大分中学の彩色写真  戦前の絵葉書所収

 

(10-3)大正9年頃の大分中学 校舎前に電信柱が建てられている。大分寫眞帖(大正9年)所収

 

 (10-4)明治25年に撮影された大分県尋常中学校第4回卒業生写真 オリジナルプリント所収

 

(10-5)上野丘にある金剛宝戒寺 戦前の絵葉書所収

 

 

11. 大分第一高等女学校

      ~旧 長池町、現在の大手町~

  (11-1)大分県立高等女学校 正門側から撮影した写真。開学当初は大分県女子師範学校と同じ敷地にあり、府内城の堀を隔てた現在の大手町にあった。正門の傍らに荷台つきの自転車が見える。戦前の絵葉書所収

 

 (11-2)大分県立高等女学校 (表札が単独になっている) 戦前の絵葉書所収

 

 (11-3)大分県立高等女学校 写真のように、後に明るいクリーム色の塗装が施された。戦前の絵葉書所収

 

 (11-4)大分県立高等女学校 南側(中庭)側から撮影。中央遠くに高崎山が見える。写真のように、後に明るいクリーム色の塗装が施された。戦前の絵葉書所収

 

 (11-5)大分高等女学校の運動会(書道演技)戦前の絵葉書所収

 

(11-6)大分県立高等女学校創立10周年記念絵葉書 戦前の絵葉書所収

 

(11-7)昭和5年(1930年)の一高女創立20周年記念誌に掲載された音楽会の風景。写真(11-6)の創立10周年時と比べて髪型や服装に変遷がある。大分県立第一高等女学校第30回卒業写真帖(昭和5年) 所収

 

 (11-8)大分高等女学校の秋季大運動会(各級選手リレー)戦前の絵葉書所収

 

 (11-9)大分高等女学校の秋季大運動会(アッソシエーションフットボール)=現在のサッカーが日本に導入された時の英国式英語 戦前の絵葉書所収

 

 

12.大分県女子師範学校と大分第ニ高女

           ~現在の長浜町~

(12-1)昭和10年頃の大分県女子師範学校および大分県立第二高等女学校の彩色写真 明治41年に府内城着到櫓から長浜町に移転した大分測候所の隣にあった。『大分名勝』所収

(12-2)明治末頃の大分県女子師範学校 塩九升通りから眺めた学校の全景 美しい校舎が評判となり、大分の名所となった。戦前の絵葉書所収

 

(12-3)大正15年頃の校舎と桜並木(写真もピンク色で着色されている)大分県女子師範学校卒業記念寫眞帖(大正15年度)所収

 

(12-4)奉安殿についてはコラム『訪問診療とアルバム』をご参照ください。戦前の絵葉書所収

 

 (12-5)昭和12年頃の大分県女子師範学校附属小学校の朝礼。当時は男女共学の学校は珍しかった。大分県女子師範学校創立30周年・大分県立第二高等女学校創立5周年記念誌(昭和12年)所収

 

 

13. 大分川・舞鶴橋・新川

 (13-1)舞鶴橋 当初は津留橋(つるばし)と名付けられていたが、木造橋時代には鶴が羽をひろげたような形から、「舞鶴橋」という言われるようになり、後に舞鶴橋が正式名称になったという。(撮影は明治末から大正初期と思われる。) 戦前の絵葉書所収

 

(13-2)霊山(りょうぜん:右)と中宮山(左)を望む、大分川での渡し船(昭和2年頃)大分高等商業学校卒業写真記念帖(昭和2年)所収 

(13-3)戦前の大分川と、豊後富士と呼ばれる由布山、鶴見山の山稜。戦前の絵葉書所収

 (13-4)新川の風景(親子のアングルが微笑ましいですね)戦前の絵葉書所収

  

14.菡萏(かんたん)港から大分港へ

  (14-1)菡萏より小島を望む。菡萏(かんたん)とは蓮の花の意味で、別府湾の地形が蓮の花が咲いたように広がることから名付けられた説がある。写真に映っている小島は、古来より『笠結島(かさゆいじま)』や『生石小島(いくしこじま)』と呼ばれ、万葉集の柴津山(四極山)打ち越え見れば笠結の 島漕きかへる 棚なし小舟』(高市連黑人)や、後撰集の笠ゆひの 島たちかくす朝霧に いや漕きさかる棚なし小舟(土御門院)など、和歌の題材となった。戦前の絵葉書所収

 

(14-2)明治40年頃の菡萏(かんたん)港(旧大分港) 菡萏(かんたん)港と呼ばれる旧大分港は明治15年(1882年)に完成した。その後大正4年(1915年)に東側に拡張した大分港が整備された。地図(1-1)や(1-2)に記載されているように菡萏港には遊郭があり、最盛時には約200名の芸妓がいたと伝わる。大分寫眞帖(明治40年)所収

 

 (14-3)菡萏港全景 左上に港、中央に笠結島、右手前に路面電車が映っている。戦前の絵葉書所収

 

(14-4)戦前の大分港 昭和10年ごろの大分港。手前に西大分駅のホームが見える。戦前の絵葉書所収

 

(14-5) 御上陸地大分港 明治40年11月5日に当時皇太子だった大正天皇が軍艦香取に乗船して大分港に上陸した際に作られた奉迎門。行政記念画帖(明治40年)所収

 

(14-6)大分港桟橋と屋島丸の出帆 現在も大分港の玄関にある赤灯台と白灯台が見える戦前の絵葉書所収 

(14-7)栄ゆる大分港桟橋 聖路加病院名誉院長の日野原重明先生(104歳)が幼少時に、牧師の父が大分メソジスト教会に赴任する際に家族で乗船した、くれなゐ(紅)丸。戦前の絵葉書所収 

 

  

15.別府湾・高崎山から見た別府市街

 (15-1)戦前の絵葉書所収

  (15-2)戦前の高崎山頂上から見下ろした別府の風景。古来より四方を見渡せる「四極山(しはつやま)」として有名であり、戦国時代は府内を守る大友氏の居城だった。戦後は国定公園になって木を伐採できなくなり、樹木の繁茂で眺望が不可能な状態になっていた。平成26年(2014年)から高崎山セラピー道路整備により一部の眺望は可能になったが、一般市民がこの風景を見ることは困難である。戦前の絵葉書所収

 

※本ページに掲載した写真はすべて戦前から昭和25年(1950年)までに出版または撮影された所収(所蔵)資料です。無断転載はお断りします。なお、撮影時期や場所、関連した人物などを調べるために、各写真説明文に記載した絵葉書、地図、学校の卒業写真帖や記念誌のほか、以下の書籍を参考にさせて頂きました。

 

 大久保利武ら 「大分縣案内」「大分方言類集」明治35

○ 渡辺克己 編「ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 大分」図書刊行会 昭和54

○ 大分放送「大分百科事典」昭和55

○ 大分合同新聞社「秘蔵写真集 目で見る大分百年」 昭和61

 大分放送「大分歴史事典」 平成2

 加藤貞弘「大分市・消えた町名 ~その由来と暮らし~」 大分合同新聞社 平成9年

香々地町文化協会「若き日、白秋大成に寄与したー江口章子」平成11年

○ 「目で見る大分市の100年」平成12年 郷土出版社

芦刈政治「戦国乱世の英傑 大友宗麟」大分県先哲叢書 平成8年

 

(更新履歴)

2015年3月30日(Ver.1.0)当ページ 作成。大分上野丘高等学校創立130周年記念パネルの戦前部分の原案となる。

2015年4月04日(Ver.1.1)大正10年大分市街図を掲載(地図0-1)。竹町の大分銀行内部(絵葉書)、大分県教育会館(絵葉書)、人造羊毛工場(絵葉書)追加。

2015年4月08日(Ver.1.2)鳥瞰図大分市観光案内図、 二十三銀行内部の写真追加。威徳寺境内の松の解説を付記。参考文献に「目で見る大分市の百年」を追加。

2015年4月12日(Ver.1.3) 松栄神社の説明文補足。大分第一高女創立20周年時の音楽会、大分第一高女全景の航空写真、大分県女子師範学校・大分県立第二高等女学校歌パンフレットを追加。

2015年11月25日(Ver.2.1)上記追加写真の解説文完成。写真13-1に、柴津山(四極山)打ち越え見れば笠結の 島漕きかへる 棚なし小舟』(高市連黑人)や、笠ゆひの 島たちかくす朝霧に いや漕きさかる棚なし小舟(土御門院)の歌を追加。府内城および周辺の写真を中心に追加。写真(5-3)と(5-25)の解説文に北原白秋の歌白雉城 お濠の蓮の ほの紅に 朝眼よろしも 妻のふるさと』を追加。

2016年1月11日(Ver.2.2)写真(1-1)明治40年の府内城下町の解説文に、江口章子の歌『母の里 府内城下に籠つらね 春ごと聞きし うぐひすの声』を追加。

2016年1月17日(Ver.2.3)写真(1-1)明治40年の府内城下町の解説文の追記。

2016年1月18日(Ver.2.4)写真(5-20)に、大分第一高等女学校の校歌の一節『白雉城 しろきに風かほるこの道』のフレーズを追加。

2016年4月20日(Ver.2.5)府内城の写真(5-9B)を追加。

2017年2月2日(Ver.3) 府内城の項目の写真を多数追加して解説を加える。これに伴い、章立てと写真番号の大幅な変更。

 

            文責 みえ記念病院  森本卓哉