ドクター森本のブログ連載

 

      大分のタイムカメラ

         ~回想法に役立つ古写真~


9)臼杵編 ~戦前の臼杵城周辺の海岸風景~

平成27年(2015年)4月6日(月曜日)

写真上:戦前の臼杵城に広がる海岸。写真中:下り松(さがりまつ)と言われた海岸沿いの景勝地から臼杵城を望む。写真下:戦前の臼杵市街(いずれも著者所収)
写真上:戦前の臼杵城に広がる海岸。写真中:下り松(さがりまつ)と言われた海岸沿いの景勝地から臼杵城を望む。写真下:戦前の臼杵市街(いずれも著者所収)


こんにちは!(^-^) 

 

今日ご紹介する絵葉書は、戦前の臼杵城(臼杵公園)から見た海の景色や、『金亀城』という愛称のあった臼杵城全体の風景です。

 

私の実家は臼杵市と接する大分市吉野ですが、祖母をはじめとして臼杵市に縁が深いことから、臼杵の昔ばなしをいろいろと聞いて育ちました。中でも、現在は埋立地が広がっている臼杵城周辺は昔は海で、とても風光明媚だったという話に興味を持ちました。

 

臼杵城周辺と同様に、大分市の春日浦も戦前は松原が広がる大分の名所として知られており、海水浴やボートに行った話を祖父母から聞いて羨ましいなあと子供心に感じていました。戦後はいずれも埋め立てられて、工場や住宅地が広がることで大分県の経済は発展したわけですが、こうして昔の風景を見ると現代の私たちも癒される気がします(^^)。。。

 

                       (文:森本)

8)戦前の大分市の彩色写真

平成27年(2015年)2月23日(月曜日)

上から、大分市街近郊の田園から埋立前の春日浦方面を望む風景、高崎山を望む別府湾、大分港、旧大分銀行本店と別大電車が走っていた現在のトキハ前通り、上野丘の旧大分高等商業学校、旧大分県庁と府内城(戦災前)です。(著者所収)
上から、大分市街近郊の田園から埋立前の春日浦方面を望む風景、高崎山を望む別府湾、大分港、旧大分銀行本店と別大電車が走っていた現在のトキハ前通り、上野丘の旧大分高等商業学校、旧大分県庁と府内城(戦災前)です。(著者所収)

 

こんにちは!(^-^) 昔の白黒写真は年月が経過するとセピア色となり、時の流れを感じる風情がある一方、当時の色合いはどんな感じだったのだろうと想像を巡らせることも楽しいですね。

 

今回は『大分名勝』というカード写真集の一部をご紹介します。戦前の写真は白黒の写真が一般的でしたが、お土産用に着色した写真が大分でも売られていたようです。空襲で中心街がほぼ全焼する前の大分市街の遠景や、高崎山を望む別府湾と大分港、旧大分銀行前の市電が通る光景は、私たちの祖父母が実際に目にしたものであり、当時にタイムスリップしたような感覚になりますね。こうしてみると郷土や自然は、過去から現在、未来へと受け継がれる大切な贈り物であることを改めて感じます。

                          (文:森本)

 

7)大分の佐伯は「さいき」か「さえき(さへき)」か

平成27年(2015年)2月2日(月曜日)

写真上:戦前の佐伯市街の絵葉書の英文解説に『SAEKI』と書かれています。写真中:佐伯海軍航空隊の水上飛行機の尾翼に『サヘ(サヘキの略)』の文字が見えます。写真下:佐伯航空隊の零式水上偵察機11型モデル(©アシェットコレクションジャパン) 。いずれも著者所収。
写真上:戦前の佐伯市街の絵葉書の英文解説に『SAEKI』と書かれています。写真中:佐伯海軍航空隊の水上飛行機の尾翼に『サヘ(サヘキの略)』の文字が見えます。写真下:佐伯航空隊の零式水上偵察機11型モデル(©アシェットコレクションジャパン) 。いずれも著者所収。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんにちは!(^-^) 

 

私は大分県出身ですが、恥ずかしながらつい最近まで佐伯市の地名の読み方は「さえき」と思っていました。今の正式な読み方は『さいき』で、当院のある三重町に程近い佐伯市から来る救急車にもSAIKI-CITY FIRE DEPARTMENT(佐伯市消防署)と書かれています。先日、佐伯方面から来院した消防車の英文ロゴを見て長年の勘違いに気がついた次第でした。恥ずかしい~(^^;)

 

ところで明治生まれだった祖父は臼杵に接する大分市の吉野出身で、警察官として県内各地で勤務していたのですが、「さえき」と発音していたと記憶しています。改めて戦前の絵葉書を見るとSAEKI という英語で綴られています(写真上)。また、戦前の佐伯の女島(めじま)にあった佐伯海軍航空隊の水上飛行機の尾翼にも所属基地の名称を意味する「サヘ(キ)」と書かれていました(写真中・下)。

 

大分県立図書館の郷土情報室に問い合わせたところ、佐伯市の地名は古代から中世に領主だった佐伯氏に由来するそうで、もともと「さえき(サヘキ)」と言われていたことは間違いないそうです。それがなぜ『さいき』という読み方に変わったかについては、先日当院に来院された佐伯市の観光ガイドさんから、「広島県佐伯(さえき)郡(※現在は広島市佐伯区)と区別するために変更されたのでしょう」と教えていただきました。大分でも古代から千年以上にわたって受け継がれてきた読み方を、他県と区別するために変更されるのは心外な気もしますが(^^;)、実に興味深いエピソードですね。佐伯の読み方の変更につきまして、詳しい経緯を御存じの方がおられたらぜひ教えてください。

 

                        (文:森本)

(補遺)2015年12月22日追記

佐伯の読み方については、『太宰管内志』豊後之部 海部郡編に、「佐伯は佐倍支と訓むべし」と書かれており、大分県立図書館の司書さんが調べてくれたように豊後では少なくとも奈良時代から「さえき」と読まれていたことは間違いないようです。ただ同じ本の中に、豊後州 撤一雞(サイキ)と16世紀の中国の史書に書かれていたことが紹介されています。戦前もかなりの割合で『さえき』と呼ばれていたことは間違いないようですが、大正5年(1916年)7月に佐伯町議会が表記を「さえき」から「さいき」に変更したと佐伯市史に記載されています。古来からの読み方である「さえき」から訛った「さいき」の読み方が佐伯町である程度増えたため、「さいき」を採用しようとする動きだったのでしょう。ただ「さいき」をローマ字読みにすると「SAIKI」となり英語がネイティブの外国人は「サイーキ」と読んでしまったりするので不都合も多いと思うのですが、大正5年の佐伯町議会から徐々にさえき→さいきの読み方へと一般にも浸透していき、今では一部の高齢者を除く若年~中高年世代は「さいき」が一般的な読み方となっています。

 

 

6) 戦前の高崎山(城)の頂上から見た風景

平成26年(2014年)12月26日(金曜日)

高崎山の頂上から見た戦前の別府の風景(著者所収)
高崎山の頂上から見た戦前の別府の風景(著者所収)

 

 こんにちは!(^-^) 今回は、戦前の高崎山の頂上から見た風景を紹介します。

 

地元の高齢者にお話を伺うと、戦前の高崎山は、現在のように山道から頂上までの樹木が密集していなかったことから、見晴らしが良いハイキングコースだったそうです。高さは東京スカイツリー(634m)とほぼ同じ628mです。

高崎山の中腹あたりから見た戦前の別府の風景(著者所収)
高崎山の中腹あたりから見た戦前の別府の風景(著者所収)


高崎山は古くは『四極山(しはつやま)』と呼ばれ、頂上からは別府湾や由布山、鶴見山など四方が見渡せたほか、豊後国府がある府内(現在の大分市)のどこからでも望める象徴的な山として知られていました。


中世には山城が築かれ、南北朝や戦国時代の合戦の舞台になっています。大友氏時代は巨大な要塞のような城であったことが近年の調査から判明しており、宣教師のフロイスが書いた『日本史』にもタカザキ(高崎)城として登場します。山頂には港や街道からの情報を伝えるための狼煙(のろし)台があり、府内の大友館や周辺との連絡にも使われていたようです。御紹介した戦前の高崎山からの風景を、四百年以上前に大友宗麟や黒田官兵衛が眺めていたと想像すると、歴史のロマンを感じます。


今年から環境省や大分市の森林セラピー事業の一環として、高崎山セラピー道路が整備されて、これまで樹木の群生で頂上からほとんど見えなかった別府湾が所々見られるようになりましたが、戦前の絵葉書のような絶景ではないようです。高崎山は、戦後に野猿の餌付けに成功して『おさるの山』として観光地化が進んだことや、国の自然動物公園であるためあまり木を切ることはできないそうですが、戦前のような眺望が可能になれば、大分を代表する観光名所としての評判がさらに高まると思います。。。

日出城天守台から、別府湾を挟んで望む高崎山(中央の小高い山)です。
日出城天守台から、別府湾を挟んで望む高崎山(中央の小高い山)です。


                        (文:森本)

5) 戦前の大分駅前

平成26年(2014年)12月1日(月曜日)

戦前の大分駅の彩色写真。(著者所収)
戦前の大分駅の彩色写真。(著者所収)


こんにちは!(^-^) 今回は、戦前の大分駅前を紹介します。

 

大分駅は1912年(明治44年)に別府駅から続く豊州本線の終着駅として開業しました。その後は県全域に広がった鉄道の中で、大分県の中心駅として発展します。右の写真は戦前の大分駅で、駅舎の表玄関前に植えられた大きなクスノキが名物でした。クスノキは戦災も免れ、1964年(昭和39年)の伐採まで長く県民に親しまれていました。

大分駅から見た駅前広場。右端に吉島食料品店と、「桜ようかん」の看板が見える。(著者所収)
大分駅から見た駅前広場。右端に吉島食料品店と、「桜ようかん」の看板が見える。(著者所収)

 

上の絵葉書は、大分駅の表玄関(現在の府内中央口:北口)から見た戦前の駅前広場です。ここでは大きな行事をはじめ、出征や復員した兵士の送迎、戦地で亡くなった方々の多くの棺を迎えるなど、駅を訪れる人にとって大変思い出深い場所だったそうです。写真の右端に、吉島食料品店と桜ようかんの看板が見えます。吉島食料品店は駅前でお土産のお菓子などを販売しながら食堂も開いていたお店です。

下に吉島食料品店のメニューを紹介します。看板に書かれた桜ようかん(櫻羊羹)や、地元に由来する名前を冠したお土産の豊後梅(大分県花から)、春日の友(春日町や春日神社から)、白雉飴(はくちあめ:府内城の愛称の白雉城から)などが販売されていました。食堂部ではコーヒー5銭、ライスカレーや文化親子丼30銭などのメニューが記載されています。(※画面をクリックすると拡大します)

吉島食料品百貨店の広告。大分に由来する名前(豊後梅、春日、白雉)をつけたお土産や、コーヒーやライスカレー、文化親子丼などのメニュー。(著者所収)
吉島食料品百貨店の広告。大分に由来する名前(豊後梅、春日、白雉)をつけたお土産や、コーヒーやライスカレー、文化親子丼などのメニュー。(著者所収)
明治末の路面電車の大分駅停留所(著者所収)
明治末の路面電車の大分駅停留所(著者所収)

大分駅前は1900年(明治33年)に九州で初めて敷設された路面電車(豊州電気鉄道、後の大分交通別大線)の終点でもありました。右の写真のように、開業して数年間は(路面電車の)大分駅停留所は南新地(竹町通り前付近)にありましたが、12年後に鉄道の大分駅が開設してから、現在の大分駅前まで終点が延伸しました。電気は大野郡(今の豊後大野市)の沈堕の滝に開発された水力発電所から供給され、大分別府間を約50分で運行する、当時の最先端の交通機関でした。以来、戦後の自動車の交通渋滞を軽減する目的で1972年(昭和47年)に廃線となるまで、通勤や観光に大きな役割を果たしていました。


ところで、大分方言では今でも鉄道の列車を『汽車』と呼びます。例えば、「汽車で行くけん(共通語訳:JRで行くからね。)」というような表現です。このため「電車の間違いでしょ」と笑い話になることがありますが、大分では鉄道の車両(=汽車)と路面電車(=電車)を早くから区別して呼んでいた名残なのでは?と私見ながら思っています。

 

現在の大分駅は、かつて『駅裏』と呼ばれていた上野の森口(南口)の大規模な開発が進み、さらに従来から表玄関だった府内中央口(北口)の再開発によって、『JR大分シティ』という新しい駅ビルが平成27年(2015年)4月に完成予定です。大分駅百年の歴史を踏まえて、これからも発展が楽しみですね(^^)

工事が進む大分駅前 (2014年12月)
工事が進む大分駅前 (2014年12月)

 

参考文献:

田尻弘之『大分交通別大線』 RM LIBRARY 85巻  ネコパブリッシング  2006年

                      

                          (文:森本)

4) 戦前の竹町通り商店街

平成26年(2014年)11月25日(火曜日)

こんにちは!(^-^)  今回は、大分市竹町通り商店街の明治時代と昭和初期の二つの絵葉書を紹介します。


上の写真は明治末期の竹町の入口です。九州初の路面電車となった豊州電気鉄道(後の大分交通別大線。通称 別大電車)のレールが手前に見えます。路面電車が通っていた道路は、現在は大分駅からトキハデパート前のスクランブル交差点を通る大きな車道になっています。当時の竹町通り商店街は、眼鏡の看板が目印の矢野眼鏡店(右)と小手川商店(左)で始まり、ここから府内城下町の西の玄関である笠和口(現在の大分オアシスタワーホテル前の道路が外堀で、その出入口)まで続いていました。矢野眼鏡店は現在の『ヤノメガネ』で、今も竹町に本店があります。


下の写真は昭和初期の頃です。正面上に『竹町通』のアーチと、天幕のアーケードが部分的に作られています。自転車に乗った通行人の姿がありますが、アスファルトブロックで舗装が施されていました。1922年(大正11年)からは現在も開催されている竹町夜市が始まります。

昭和10年(1935年)鈴蘭燈が灯る風景。左手遠方に4階建ての一丸デパートが見える(著者所収)
昭和10年(1935年)鈴蘭燈が灯る風景。左手遠方に4階建ての一丸デパートが見える(著者所収)

夜は「鈴蘭燈」と呼ばれた電燈が灯りました。1934年(昭和9年)に、竹町2丁目に大分県初の百貨店「一丸デパート」が開店してさらに賑やかになります。

 

1945年(昭和20年)7月17日の大分空襲で商店街は全焼しましたが、戦後復興して現在の姿となりました。ただしばらく廃墟だった時期があり、かつての賑わいを取り戻すまでに数年の歳月がかかったそうです。一丸デパートの建物は焼失後、再建されることはありませんでした。

大分県で初の百貨店として竹町2丁目に開店した一丸デパートの広告(著者所収)
大分県で初の百貨店として竹町2丁目に開店した一丸デパートの広告(著者所収)


現在の竹町通り商店街は『ガレリア竹町』と呼ばれ、戦後は竹町噴水広場、現在は日本ポルトガル交流450周年を記念して作られた帆船モニュメントが名物となっています(帆船は竹町広場の整備のため今年度内に撤去予定)。それにしても、戦前の賑わいに改めて驚かされる写真ですね。。。

 

                           (文:森本)


3) 大分県女子師範学校と大分県立第二高等女学校

平成26年(2014年)11月18日(火曜日)

大分県女子師範学校と大分第二高女の全景。上の彩色写真は戦前に販売されていたカード(著者所収)
大分県女子師範学校と大分第二高女の全景。上の彩色写真は戦前に販売されていたカード(著者所収)

 

こんにちは!(^-^)

 

今回は、大分市長浜町にあった大分県女子師範学校と大分県立第二高等女学校を紹介します。

 

大分県女子師範学校は1907年(明治40年)に、府内城の堀を隔てた南側(現在の大分県庁がある大手町)に、大分県立高等女学校(後の大分県立第一高等女学校:第一高女)と共に開校しました。1911年(明治44年)には女子師範学校が長浜町に新築移転されて、絵葉書のような美しい学校として、大分の名所となりました。このとき附属小学校(4学年)も設置されています。1930年(昭和5年)には、大分県立第二高等女学校(第二高女)が併設され、教員向けの『数量生活確立の算術教育』、『体験の郷土教育』などの教科書を出版する高等教育機関としての役割も果たしていました。


絵葉書は、大分市の塩九升(しょくじょ)通りの方向からみた風景です。外国映画に登場する学校みたいに華麗ですね!学校の敷地の南北と東西に植えられた桜並木がとても綺麗だったそうです。

 

先月、第二高女を卒業された女性から、戦時中の御話を伺うことができました。1945年(昭和20年)7月17日未明の大分空襲で、校舎は爆弾の直撃を受けて焼失してしまったそうです。御話を伺った女性は、空襲時は幸い郊外におられて、深夜に燃え盛る大分市街方面の炎を見て涙を流したとのことでした。その翌日、瓦礫だらけの廃墟になった学校を片づけに行って、さらに悲しかったとのことでした。現在は学校跡地に大分市立長浜小学校が建っていますが、当時を偲ぶ名残として二宮金次郎像が、女子師範学校の第二附属小学校だった大分市立稙田小学校に保存されているそうです。

 

亡くなった私の祖母も大分県女子師範学校の卒業生だったことから、空襲で燃えて悲しかったことを子供の頃に聞いていました。ところで最近、祖母の卒業アルバムを初めて見て、学生時代の祖母が意外に(?)可愛らしかったことに驚きました。おばあちゃんも少女だったという素朴な発見です。『鬼も十八、番茶も出鼻』かもしれませんが。。。(^^;)

 

                            (文:森本)


2) 戦前の府内城と旧 大分県庁

平成26年(2014年)11月7日(金曜日)

こんにちは!(^-^)

 

今回は、1945年(昭和20年)の空襲で焼失する前の、大分市の府内城の彩色写真

を紹介します。戦前の絵葉書は旧漢字や、右→左に書かれていることが特徴です。

 

右上の写真は、府内城の二の丸(手前の西の丸と東の丸)を、現在の大分市役所の方向から見た風景です。戦後に櫓が復元された現在の風景とあまり変わらないと思われるかもしれませんが、城内に大きな松が何本もあることや、堀に蓮が植えられていたことが戦前の特徴です。さらに、手前の二重櫓(西南櫓)と宗門櫓の間の石垣にわずかな段差があることが現在との違いです。石垣の段差があるのは、江戸時代に修築か拡張工事をされた跡かもしれませんが、戦後の復元後は平坦になっています。写真に撮影された建物は、1945年(昭和20年)7月17日の大分空襲で、宗門櫓を残して全て焼失してしまいましたが、1965年(昭和40年)に復元されました。

 

右下の写真は、府内城内に1921年(大正10年)に新築された旧大分県庁(左)と大手門(右)です。この旧大分県庁の写真を見て、『懐かしい!』と仰る高齢者は多いです。旧大分県庁は空襲では北西部を損傷しただけだったので、1965年(昭和40年)まで使用され、その後は堀を隔てた大手町にある現在の庁舎に移転しました。旧県庁跡地に1966年(昭和41年)に建てられた大分文化会館も、半世紀が経過して老朽化のため、今年(2014年)7月に取り壊されました。。。

 

現在の府内城はかつての旧大分県庁も、大分文化会館も無くなって、城内は広々と(閑散と?)しています。最近では1996年(平成8年)に西の丸と山里丸を結ぶ廊下橋が復元されましたが、『大分のシンボルである府内城の天守の復元を!』という県民の声が大きくなっているようですね。


参考サイト:府内城を復元する会http://www.funaijou.jp/ 

 

                            (文:森本)

1) 戦前の木造の舞鶴橋

平成26年(2014年)10月15日(水曜日)

こんにちは!(^-^)

 

現在の認知症ケアで、『回想法』といって、患者さんの青少年時代の写真や音楽を手がかりにして、患者さんの記憶や意欲を引き出すお手伝いをする方法があります。

 

医療者にとっても、自分が生まれる前の郷土を、ドラえもんのひみつ道具『タイムカメラ』のように知ることはとても貴重な体験となります。私は上記の経緯で、大分県の様々な古絵葉書で回想法の題材になりそうなものを収集していますが、そのうちの一枚を紹介します。

 

右上の写真は、戦前(大正~昭和初期)の大分川の舞鶴橋です。西南戦争が起こる前年の明治9年(1876年)に、大分町から大分川を渡って津留村に至る『愛媛街道』として、大分~佐賀関間道路の開通に伴って竣工しました。元々の橋の名前は、「津留橋」でしたが、長い木造の橋が大分の名所となる人気となり、通称で『舞鶴橋』と呼ばれたものが、現在の舞鶴町や大分舞鶴高校(ラグビー名門の進学校で、松任谷由美の名曲「ノーサイド」でも有名)の名前の語源になっています。

 

残念ながら、昭和28年(1953年)の西日本大水害でこの橋が流出してからは、当時日本で2番目の面積を誇るコンクリート製で作られた今の『舞鶴橋』となりました。それにしても昔の木造時代の舞鶴橋はとても優雅ですね。当時の大分名所の一つに数えられたことを実感できます。 

                          (文:森本)